階段踊り場の二月四日

──平成0x29A年02月04日 05:00

平成0x29A年02月04日、朝五時。

目覚ましはガラケーの着メロで鳴るのに、枕元のスピーカーはサブスクの「平成朝番」プレイリストを勝手に続けてくる。私は止めるボタンを二つ間違えて押し、結局どっちも鳴りっぱなしのまま布団を出た。

台所の壁に掛けた紙のカレンダーを、親指で一枚めくる。裏に、去年の自治会アンケートのQRが透けて見える。メモ欄には母の字で「点検 踊り場」とある。

『忘れないで。今朝は寒いから、手袋』

耳の奥で、母の人格エージェントが言う。享年五十四。冬の入浴事故。生前と同じ調子で、私の生活に入り込む。

私は廊下の靴箱から、丸めた紙の地図を引っ張り出した。集合住宅の敷地図で、売店やゴミ置き場、非常階段の位置が赤ペンで書き足されている。アプリでも見られるけど、紙のほうが指が迷わない。

踊り場の点検、といっても私は設備屋じゃない。第9居住ブロックの「遺伝子ネットワーク」周りの微細異常を拾う、住民協力の当番だ。朝の回覧で来た依頼は、こう書いてあった。

〈センサーダスト散布後、血縁推定の揺れが観測されました。局所再計測に協力ください〉

玄関を出ると、共用廊下の空気が金属みたいに冷たい。足元の点字ブロックの溝に、光を反射する粉が薄く積もっている。センサーダスト。見えないはずなのに、湿気を吸うとこうやって薄い虹色になる。

踊り場へ向かう途中、1階のミニ売店のシャッターが半分だけ開いていた。早朝でも動く省人化レジの画面が、青白く待機している。人は誰もいないのに、レジだけが「いらっしゃいませ」を小声で繰り返して、まるで夢の続きみたいだ。

私は温かい缶コーヒーを一つ取り、レジの前に置いた。カメラが私の指先と顔を見比べ、音もなく決済が通る。

〈血縁優先割 適用〉

表示された割引名に、私は一瞬だけ眉をひそめた。

『……それ、おかしい』

母が言う。『あなた、ここで血縁割なんて使ったことないでしょう』

私もそう思う。けれど割引は数十円で、怒るほどでもない。怒るべきは別のところだ。

踊り場に着くと、手すりの付け根に小さな楕円の端末があり、周囲にセンサーダストが静かに漂っていた。私は紙の地図を広げ、端末の位置を確認する。地図の角が風でめくれそうになり、手袋越しの指に紙のざらつきが伝わる。

端末の表示は「皇統拡散ノード 近傍」とだけ出て、詳細は伏せられている。普段なら意識もしない言葉だ。でも今朝は、その伏せ方が、妙に薄い布みたいに見えた。

私は回覧の手順どおり、端末に手のひらをかざした。センサーダストがふわっと上がり、皮膚の上で微かな静電気が弾ける。

〈再計測:親縁推定 0.51→0.12→0.88〉

数値が落ち着かない。まるで、私の「親」が、何人もいるみたいに。

『あなた、怖い?』

母が訊く。

「怖いっていうか……」私は缶コーヒーを握り直す。「気持ち悪い。自分の血が、誰かの都合で並べ替えられる感じ」

端末が小さく震え、通知が一つ落ちてきた。どこかの内閣ユニットの審査窓口からだ。

〈差分断片:遺伝子ネットワークの近傍ノード再同期を承認してください。署名要求:党ドクトリン準拠〉

私は思わず笑いそうになる。こんな踊り場に、政治の窓口が開く。しかも「党」の署名が要る。誰も顔を見たことのない党の、誰も正体を知らないドクトリンの。

『承認しないで。慎重に』

母の声が硬い。倫理検査の時期でもないのに、彼女の口調だけが検査官みたいだ。

私は端末の隅にある「説明を要求」を押した。画面に、解読されたらしい平文がちらりと出る。

〈社会安定に最適:平成的家族観の維持。血縁推定の補正〉

補正。つまり、私の血縁の揺れは「直すべきノイズ」だ。

その瞬間、階下から足音がした。新聞受けのガチャガチャという音と、息を切らした誰かの気配。

「すみません……」

踊り場に現れたのは、向かいの部屋の小学生くらいの子と、その背後の祖父らしい男性だった。祖父は杖をつき、子が紙のカレンダーを抱えている。カレンダーの端には、私の部屋の番号が鉛筆で書かれていた。

「これ、間違えて入れちゃって……自治会の」子が言い、カレンダーを差し出す。

私は受け取って、見覚えのある印刷に気づいた。うちのポストに入るはずの、来月分の点検予定表だ。

祖父が頭を下げる。けれど、その動きと同時に、私の耳の奥で母が小さく息を呑んだ。

『……この人』

母の声が、昔の写真をめくるときみたいに柔らかくなる。

祖父が顔を上げた。その目尻のしわ、左の眉の欠け。私は胸の奥が、変な音で鳴るのを感じた。

「もしかして、山科……?」

祖父が私の名を、確認するみたいに呼んだ。

私の端末がまた勝手に表示を変えた。

〈親縁推定:0.88 固定〉

『あなたのお父さんの、叔父さんよ』

母が言う。私が会ったことのない、家系図の端の人。平成の頃なら、正月にだけ顔を出すような。

祖父——叔父さん——は、私の手の中のカレンダーを見て、ほっとしたように笑った。

「ちゃんと、紙で残してるんだな。えらいな」

私は、さっきまでの気持ち悪さが、少しだけ薄まるのを感じた。血縁推定が揺れたせいで、間違って届いた紙が、会うはずのなかった親戚を連れてきた。

端末の通知がまた点滅する。承認を急かす。

私は画面を閉じ、紙の地図を畳んだ。今は、署名もドクトリンも、踊り場の風より遠い。

「……缶コーヒー、一本ありますけど。よかったら」

私が言うと、祖父は遠慮して首を振り、代わりに子が目を輝かせた。

そのとき、省人化レジの遠い「いらっしゃいませ」が、廊下の奥から小さく聞こえた。

平成の挨拶は、誰もいないところにも残る。

でも今朝は、私の前に、ちゃんと誰かがいる。

私はカレンダーのメモ欄に、赤ペンで一行足した。

「点検 踊り場 ——会えた」