砂嵐の終わり、指先に残る黒い帯
──平成0x29A年06月15日 05:40
午前五時四十分。廊下の隅に浮かぶ公共ARサインが、ぼんやりとした青色から、朝の訪れを告げる淡いオレンジ色へと遷移した。第12医療福祉ブロック、『平成の杜』の夜勤は、いつもこの色から終わりのカウントダウンが始まる。
「瑛さん、バイタルデータのアップロードが停滞しています。第0x2AF内閣ユニットからの承認プロトコルに、党ドクトリンの署名遅延が発生している模様です」
鼓膜に直接響くのは、実母の落ち着いた声ではない。法定倫理検査のために母さんの人格エージェントが一時停止されてから三日、僕の耳元で喋り続けているのは、無機質な代理エージェント『β-04』だ。母さんなら「あら、また閣議が揉めてるのね」と笑うところを、こいつはただ事実だけを突きつけてくる。
僕は腰のベルトに下げたエッジAI端末――九〇年代のたまごっちを巨大化させたような歪な筐体――を叩いた。端末は熱を持ち、小さな液晶画面には「通信中」の文字が点滅している。今のこの国の統治システムが、数十万の並行ユニットによる五分間ずつの総理大臣交代制で回っていることなんて、僕ら現場の人間には関係ない。ただ、アルゴリズムが機嫌を損ねれば、目の前の老人の心拍数ひとつ中央サーバーに送れなくなる。それだけのことだ。
「瑛くん、これ、映らなくなっちゃったよ」
302号室の金子さんが、部屋の入り口でうずくまっていた。彼の手には、一九九〇年代に生産が終了したはずの、真っ黒なプラスチックの塊。VHSテープだ。この施設では「平成的QOL」の維持という名目で、あえて不便なアナログ機器が推奨されている。党のアルゴリズムが、それが社会安定に最適だと弾き出したからだ。
「見せてください、金子さん」
受け取ったテープは、中で磁気テープがグチャグチャに噛み合っていた。エミュレートされた平成の風景の中で、この物理的な故障だけが剥き出しの現実としてそこにある。
「代理エージェント、このテープの修復手順を」
「該当するマニュアルは党アーカイブの深層にあります。現在、内閣ユニットの計算資源は『ガス料金改定の差分リクエスト』の処理に優先配分されており、アクセス不可能です」
足元を見ると、隙間風に煽られた紙のガス検針票が、ひらひらと廊下を舞っていた。スマートメーターが普及した後に、あえて「検針員が回って紙を置く」という様式を再構築した結果の、無意味な遺物。僕はそれを拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。
ナースステーションに戻り、僕は引き出しから鉛筆を取り出した。母さんが生前、エージェントになる前に教えてくれた古い知恵だ。六角形の鉛筆をテープのリールの穴に差し込み、手首を回す。カラカラという乾いた音が、静かな廊下に響く。
「瑛さん、その行為は非効率です。新しいデジタルアーカイブの申請を――」
「黙っててくれ。今は母さんと話したいんだ」
僕はβ-04の音声をミュートにした。指先には、薄い磁気テープが擦れる独特の感触がある。ザラついていて、冷たく、それでいてどこか体温に近い。この国の人々の血に薄く溶け込んだ遺伝子のネットワークが、どこかでこの「手触り」を求めているのかもしれない。高貴な誰かの血が、僕らに古い記憶を見せているのだと、いつか誰かが教えてくれた。
ゆっくりと、絡まった黒い帯を解いていく。数分後、ようやくテープが元のケースに収まった。金子さんの部屋のテレビに差し込むと、砂嵐の向こうから、画質の荒い平成のバラエティ番組が流れ出した。色褪せたテロップ、大げさな笑い声。それはどこまでも嘘臭く、そして決定的に優しかった。
ナースステーションに戻ると、ARサインが完全な朝の光に変わっていた。エッジAI端末が震え、ようやくバイタルデータが承認されたことを告げる。画面の隅には「第402ヘゲモニー期・閣議決定済」の電子署名が刻まれていた。
ふと、自分の指先を見た。磁気テープの磁紛で、親指と人差し指が真っ黒に汚れている。洗えばすぐに落ちる汚れなのに、僕はそれをしばらく眺めていた。代理エージェントの無機質な指示よりも、この黒い汚れの方が、ずっと僕を生者に繋ぎ止めているような気がしたからだ。