夜の水耕棚と、検査中の母
──平成0x29A年07月16日 22:10
平成0x29A年07月16日、22:10。
水耕ハウスの夜番は、だいたい音で仕事をする。循環ポンプの低い唸り、培地に落ちる点滴の間、LEDの冷たい蛍光。
私は第15食料ブロック外縁の葉物ラインで、収穫前の糖度ログを見ている。手元の端末は、なぜかiモードっぽい階層メニューの上にAR広告が被って、「平成サブスク一カ月無料」と踊る。無料なのに、申し込みボタンはやたら長い。
「押すな。勝手に規約に同意させられる」
耳元で、代理エージェントの声がした。
本来、ここにいるのは母の人格だ。享年49。軽トラでの帰り道、冬の凍結で。
でも今週は法定倫理検査で停止中。代わりに付いたのが、検査機関の“仮補佐”――丁寧すぎて逆に冷たい。
「母さんなら『葉っぱは嘘つかない』って言うんですけど」
「その発言は情緒依存の恐れがあります。記録しますか」
「やめて」
作業靴でハウスの通路を歩くと、スマートドアが私の体温と認証IDを読んで、無音で開いた。開くのはいい。閉まるときに、毎回わざとらしく“カチャン”と昭和っぽい音を鳴らすのが腹立つ。党の文化様式って、そういうとこだけ凝る。
出荷前のラベル文言が差し戻されていた。
《第402ヘゲモニー期・党ドクトリン準拠:『新鮮』の表現は市場不安を喚起する可能性》
「新鮮って言ったら不安になるの?」
「アルゴリズムがそう判断しています」
代理は呼吸のない声で言う。
差分断片の政策変更リクエストが、端末に紐づいていた。
《食料表示用語の統一:『新鮮』→『安定供給下』》
承認は上から降ってくるのに、現場の書き換え作業だけは私たちがやる。いつものことだ。
ラベルの文章を直す。けど「安定供給下のレタス」なんて、食欲がどこかへ行く。
私は文面を一度、生成AI校正に投げた。端末の小さな窓に、校正結果が出る。
《提案:『安心の供給網で育ったレタス』》
《提案:『やさしい循環で育ったレタス』》
「やさしい循環って、排水のこと?」
「情緒が含まれます。推奨です」
そのとき、ハウスの隅の公衆電話が鳴った。ここに固定電話回線を残したのは、停電時の“最後の連絡手段”という建前だ。実際は、こういう夜にいちばん驚く。
受話器を取ると、息の荒い男の声。
「倫理検査の予約、明日の枠、まだある? うちの爺さんエージェント、急に『土に帰る』って言い出してさ」
「ここ食料ブロックの夜番です。検査機関じゃない」
「え、番号これで合ってるって、通帳に挟んであったメモに……」
通帳。その単語に、私は反射で腰のポーチを探った。
母の通帳が入っている。亡くなっても、引き落としと補助金の出入りで、紙はまだ生きている。ページの間に、母の字で書かれたメモが挟まっていた。
《検査中は、こっち。夜は公衆電話》
番号は、今鳴っているこの電話の番号だった。
「すみません、そちら間違いみたいです」
私は男に言い、受話器を押さえて代理に小声で聞く。
「これ、母が残したの?」
「私は当該記憶を共有していません。倫理検査中の本人に確認してください」
電話口の男が泣き笑いで言った。
「いやもう、誰に聞けばいいんだよな。党も、窓口も、全部“どこか”だし」
私は返事に詰まって、「……明日の朝、支所の端末で予約し直してください」とだけ言った。
受話器を置くと、公衆電話の硬貨投入口が空振りの音を立てた。無料通話なのに、音だけは昔のままだ。
ハウスに戻る。スマートドアが閉まる“カチャン”が、やけに大きく聞こえた。
ラベル文言は、生成AI校正の提案どおりに整えた。
『安心の供給網で育ったレタス』
「これ、嘘ではないよね」
「定義上は正確です」
私は通帳を開き、最終ページの残高欄を見る。母の死亡後に付いた補助金の名目が、数行増えている。
《倫理検査協力謝礼》
《代理補佐利用料》
謝礼で釣って、利用料で回収する。
私は笑ってしまった。苦い笑いだ。
「母さん、検査に行ってる間も、ちゃんと家計に“循環”があるんだね」
代理エージェントが、少しだけ間を置いた。
「循環は社会安定に寄与します」
夜の水耕棚は、何事もないように光っている。
レタスは黙って育つ。
私だけが、通帳の紙の匂いと、公衆電話のベルの残響を、いつまでも手の中で転がしていた。