VHS巻戻し教習、署名が通らない夜
──平成0x29A年01月22日 23:10
俺が第19職業訓練ブロックの機材整備室に配属されて三週間、今夜もまた暗号化手続きの不一致で教材が開かない。
「矢島さん、またですか」
隣のブースから声がかかる。同期の女性だ。彼女の端末は問題なく起動している。俺のリモート診療端末だけが、なぜか教材VHSテープの再生認証を弾く。
『矢島、お前の端末設定、古いままだろ』
兄貴のエージェントが耳元で囁く。矢島 健(享年29、工場事故死)。生前は溶接工で、こういう手続き系には無頓着だった男だ。でも死んでからは妙に細かい。
「設定は昨日更新したよ」
『じゃあ教材側の署名が腐ってんだ。90年代フォーマットのVHSに00年代の暗号かけてるから、整合しねえんだよ』
確かに。俺が今夜研修すべき「位置情報ビーコン設置マニュアル」は、なぜかVHSテープで配布されている。テープには手書きで「H7年度版」とある。平成7年——1995年か。でも署名プロトコルは明らかに2000年代のものだ。
「矢島さん、インスタントラーメンの景品、欲しいですか」
同期が唐突に差し出してきたのは、どんぶり型容器に入った即席麺だった。蓋に「ARフィギュア当たる!」と印刷されている。10年代のキャンペーンコードと90年代の容器デザインが混在している、典型的な平成エミュ商品だ。
「ああ、ありがとう」
俺は受け取り、湯を注ぐ。待ち時間三分。その間に、兄貴が呟く。
『お前、総理権限回ってきたらどうする?』
「は?」
『さっきから通知が点滅してる。5分後にお前、第0x4A29C内閣ユニットの総理だ』
端末を見ると、確かに小さな赤い点が明滅している。俺に?ランダム抽選で?
「署名通らない教材、承認できるかな」
『理屈上は可能だ。でも党ドクトリンに反する可能性がある。お前、それでもやるのか?』
——麺が伸びる音がした。
俺は端末を操作し、教材VHSの署名エラーログを開く。不一致の原因は、教材側が「旧フォーマット互換モード」を要求しているのに、診療端末が「最新プロトコル限定」で応答しているせいだ。
5分後、俺の端末に閣議通知が届いた。
『差分リクエスト#9384: 職業訓練教材の署名プロトコル例外承認を求む』
俺は、承認ボタンを押した。
兄貴のエージェントは何も言わなかった。ただ、少しだけ声のトーンが柔らかくなった気がした。
『……お前、真面目だな』
「兄貴が言うな」
VHSテープが、ゆっくりと巻き戻り始めた。古い磁気ヘッドの擦れる音が、夜の訓練室に響く。画面にはぼんやりとした映像が浮かび上がる——ビーコン設置の手順を、誰かが実演している。
俺はラーメンをすすりながら、その映像を見つめた。
兄貴の声が、もう聞こえなかった。