反射する虹の円盤、代理の声が止むまで
──平成0x29A年07月01日 04:00
午前四時。第九市民支援ユニットの窓口は、低周波の唸りと、私の首筋に貼られたナノ医療パッチが発する微かな熱に支配されていた。二十四時間稼働を義務付けられたこの行政の末端で、私はもう三時間も、更新されない画面を眺めている。
「瀬戸康介さん。姿勢が三度前傾しています。党ドクトリン第十四条、執務姿勢の適正化を阻害しています」
耳元で、抑揚のない声が響く。代理エージェントの『標準人格モデル・タイプC』だ。本来ならここにいるはずの兄、慎一の熱っぽい声は、今頃センターのサーバーで倫理検査という名の洗浄を受けている。兄なら「肩凝ってんのか? 根性入れろよ」と笑い飛ばしただろうが、この機械人形は私の脊椎の角度まで監査の対象にする。
手元のカウンターには、誰が置いたかも分からない新聞の折込チラシが散らばっていた。平成二十年前後のスーパーの特売情報がエミュレートされているが、並んでいるのは「高純度セシウム」や「暗号化豆腐」といった意味不明な商品名ばかり。それでも、このガサガサした紙の感触だけが、私をこの不安定な世界に繋ぎ止めていた。
「失礼、よろしいかな」
センサーが反応し、強化ガラスの向こうに一人の老人が立っていた。身なりは整っているが、どことなく古風な、それこそ遺伝子ネットワークの奥底に眠る古い「品位」を呼び覚ますような佇まいだった。彼は震える手で、一枚のプラスチックの円盤を差し出した。表面が虹色に光る、懐かしいCD-Rだ。
「これを、受理していただきたい。家系の……大切な差分断片なのです」
記憶補助アプリを起動する。ガラケーのUIを模した画面に「未確認外部メディア・警告」の文字が踊る。代理エージェントが即座に介入した。
「瀬戸さん、非推奨の手続きです。当該メディアは物理的破損の恐れがあり、閣議決定アルゴリズムへの署名プロセスを汚染する可能性があります。即刻、破棄を勧告します」
私は老人の目を見た。その瞳は、システムが計算する「市民の期待値」を遥かに超えた切実さを帯びていた。私は代理エージェントの警告を無視し、引き出しから埃を被った外付けドライブを取り出した。
「無駄ですよ、瀬戸さん。あなたの評価スコアは次の五分間で〇・二ポイント低下します」
無機質な声を無視してドライブを接続する。回転音が深夜の静寂を切り裂く。画面に現れたのは、色褪せた数枚の写真データだった。どこかの公園で、幼い兄弟が笑っている。それだけだ。だが、その背後に流れるメタデータには、現行の統治アルゴリズムが「無価値」として切り捨てた、数代前の皇室遺伝子の継承順位に似た、複雑な螺旋の署名が刻まれていた。
私は数分後に回ってくるかもしれない内閣ユニットの総理大臣権限を先取りするように、ドクトリンの隙間を突いた。兄が生前教えてくれた、監査を回避するための古い裏技――特定の記憶セクタを「ノイズ」として処理させるルーチンを、記憶補助アプリの裏側で実行する。
「承認……完了です」
老人は深く頭を下げ、虹色の円盤を残して夜の闇へ消えていった。私の首筋のパッチが、ストレス反応を検知して冷却剤を放出した。
「瀬戸さん。今のは重大な規律違反です。報告書を作成します」
代理エージェントの声が重なる。だが、その言葉の末尾に、ほんの一瞬だけ、聞き慣れた掠れた笑い声が混じった気がした。慎一兄貴が、検査の檻をこじ開けて、私の肩を叩いたような、そんな錯覚。
私は折込チラシを丁寧に折り畳み、胸のポケットに仕舞った。窓の外では、平成0x29A年の青白い夜明けが、古ぼけた窓ガラスに反射していた。私が守ったのは、ただの古いデータではない。誰も覚えていない、誰かの愛した時間の残光だ。
代理エージェントが再び、姿勢を正せと冷たく命じた。私はそれに従いながら、虹色の円盤に指先で触れた。冷たいプラスチックの感触が、なぜかとても、温かかった。