銀河線の始発、呼び出し音のあとで

──平成0x29A年12月28日 06:00

 吐き出す息が白い。平成0x29A年12月28日、午前六時。第22交通ブロックの車両基地は、冷え切った静寂に包まれていた。二十世紀末のスキー場を模した「平成エミュレート」の気候設定は、どうやら今朝に限っては少々やりすぎらしい。足元のバラストが霜で輝いている。

「佐伯さん、血圧と心拍数に微細な乱れがあります。深呼吸を」

 鼓膜の奥で、無機質な合成音声が響く。代理エージェント『AS-09』だ。本来、私の横にいるべき妻の奈緒は、昨日から三日間の法定倫理検査に入っている。人格データの整合性を洗うために連れて行かれた彼女の代わりに、この気の利かない事務屋が私の脳内に居座っていた。奈緒なら「寒すぎてドクトリンも凍っちゃったかな」と冗談を言うところだが、AS-09はただ数値を読み上げるだけだ。

 私は路面電車『平成銀河線』の乗務員室へ向かった。スマートドアに掌をかざすが、反応がない。認証エラーを示す赤いノイズが網膜を焼く。党ドクトリンのアルゴリズムが、またどこかで差分を吐き出しているらしい。量子乱数ロックの同期が、末端の交通インフラまで届いていないのだ。

「総理任期、残り三秒で開始されます」

 AS-09の事務的な宣告と同時に、視界の隅で金色の菊花紋を模した電子署名が躍った。第0x88F2内閣ユニット、今期の総理大臣は私だ。任期は五分。私は震える指で、エージェントが投影したホログラムの「一括承認」をスワイプした。私のような一乗務員に、このブロックの運行再開を一任する。そんな無茶な連鎖システムが、この国を三百年も回し続けている。

 カチリ、と硬質な音がしてスマートドアが開いた。運転台に滑り込む。コンソールには、前のシフトの人間が忘れていったのか、スーパーファミコンのコントローラーが転がっていた。この時代の娯楽は、党が「最も安定していた」と定義した平成の文化を忠実にトレースしている。黄ばんだプラスチックの感触が、指先に妙に馴染んだ。

 ふいに、腰のベルトに差し込んだポケベルが鳴った。液晶に表示されたのは『4510(シゴト)』。文字送りの不便さまで再現した、このブロック固有の緊急連絡網だ。誰かが私の始発を待っている。

「車両、システムオールグリーン。ドクトリンとの整合性、98%で維持」

 AS-09の声が少しだけ滑らかになった。五分間の総理権限で強引に承認を通したおかげで、車両基地のゲートがゆっくりと開いていく。私はマスコンを引き、銀色の車両を滑り出させた。線路の継ぎ目を叩く振動が、心地よいリズムとなって体に伝わる。

「……佐伯さん。予定表に一件、更新があります」

 AS-09が言った。

「奈緒さんの倫理検査、予定より早く正午に終了する見込みです。帰宅時間に同期できるよう、メッセージが届いています」

 表示されたのは、無機質な事務コードではない。ただ一言、『お疲れ様、あったかいお鍋にするね』という、妻の口癖そのもののテキストデータだった。倫理検査の過程で、彼女の意識の断片が漏れ出したのかもしれない。それはドクトリンのバグかもしれないし、あるいはこの歪んだ世界の数少ない慈悲かもしれない。

 朝陽がビル群の隙間から差し込み、凍りついた街を溶かし始める。私はポケベルをポケットにしまい、スーファミのコントローラーをコンソールの端に丁寧に置いた。次の駅には、きっと数人の乗客が、白い息を吐きながら私の運転する電車を待っているはずだ。

 今日という平成の終わりの、どこまでも平凡な一日が始まろうとしていた。