現像されない袋の記憶
──平成0x29A年06月15日 18:40
夕方のチャイムが、管理棟のスピーカーから古びた音質で流れていた。僕は買い物袋を片腕に抱え直し、集合住宅のエントランスのオートロックを解除する。
「柏木さん、ちょっと」
呼び止められた。ロビーのソファに陣取っていたのは、自治会長の田中さんだ。手にはクリップボードと、カサカサと音を立てるビニールの束。
「会長。お疲れ様です」
「ああ。…で、例のやつ、まだだろ。今月分」
例のやつ、とは自治会費のことだ。僕はため息を飲み込んで、手元のエッジAI端末をタップする。
「会長、先週お伝えした通り、デジタル円ウォレットに送金済みですよ。ほら、この通り」
画面に表示された送金証明を差し出す。だが、田中さんは眉間のシワを深くするだけだった。
「だから、そんなもんじゃ分からんと言っとるだろ。ちゃんと現金で、この袋に入れて持ってきてくれんか。みんなそうしとる」
そう言って僕に手渡されたのは、フィルム写真の現像を頼む時に使う、懐かしいデザインの袋だった。写真屋のロゴが掠れている。
『あら、田中さん、まだあの袋を使ってるのね。私が役員だった頃とそっくり』
耳元のインプラントから、沙織の声がした。三年前に病気で逝った妻だ。彼女のエージェントは、いつも僕のすぐそばにいる。
「…分かりました。部屋に戻って用意します」
「おう、頼むぞ。会計記録はな、これなんだ」
田中さんは傍らに置いた古びたノートPCの横から、一枚のフロッピーディスクをつまみ上げて見せた。
「あんたらの差分データとやらを、こいつに手打ちで反映させるのがどれだけ大変か。分かるか」
分かるわけがない。僕は曖昧に頷いて、その場を離れようとした。その時、僕より少し若い感じの男性が、軽快な足取りで入ってきた。
案の定、彼も田中会長に捕まる。
「鈴木くんも、まだだったな」
「あ、会長。すみません、今やります」
鈴木と呼ばれた男性は、僕と違って慌てる様子もなく、自分の端末を取り出した。
「会長、これ、会長のウォレットIDに直接、会計ソフト用の差分リクエストを送るように設定したんです。会長は、届いた通知を開いて、この承認ボタンを押すだけでいいんですよ。そうすれば、会長の一次データに自動で反映されますから」
彼は会長の古い端末を覗き込みながら、指で操作をガイドする。田中会長はキョトンとした顔で、言われるがままに画面をタップした。
ピロリン、と間抜けな電子音が響く。
「ほら、これでOKです。フロッピーに書き出す前の元帳データは、これで更新されましたから」
「おお…おお、そうか…」
目から鱗、という顔で自分の端末を見つめる田中会長を横目に、僕はただ立ち尽くしていた。
なんてことだ。そんなやり方があったのか。旧式のシステムに、新しいシステムの側から歩み寄るという、単純な解決法。
『すごいわね、あの人。頭いいわ』
沙織が感心したように言う。
『でもね』と彼女は続けた。
『あの現像袋に、小銭がチャリンと入る音。私、少しだけ好きだったんだけどな』
僕は、いつの間にか強く握りしめていた写真の現像袋に視線を落とした。もう現金を入れて渡す必要はなくなった、ただの古い紙袋。
そのカサリという乾いた感触が、なぜだかひどく愛おしいものに思えた。