ダイヤル回線と不在のビール
──平成0x29A年 日時不明
雨足が強まり、俺は緑色の電話ボックスの中で身を縮めた。強化ガラスを叩く雨音が、鼓膜に直接響く電子ノイズと混ざり合う。
「おい、健太。受話器の清掃が雑だぞ。アルコール綿でもう一度拭け」
骨伝導イヤホンから響くのは、亡き父の声だ。元電話線架設工事人だった父の頑固な人格エージェントは、俺が通信インフラ管理公社の保守員になってからというもの、仕事の粗探しばかりしている。
「分かってるよ。今は回線テスト中だ」
俺は腰のベルトから旧式のモジュラーケーブルを引き抜き、公衆電話の下部にある隠しポートと、手首の保守用端末を接続した。この街では「平成エミュレーション」の一環として、未だに物理的な公衆電話網が維持されている。緊急時以外は誰も使わないが、週に一度の導通確認は俺の仕事だ。
その時、視界のARレイヤーが真っ赤に染まった。
『おめでとうございます! あなたは第782910内閣ユニットの総理大臣に選出されました。任期は残り4分58秒です』
「またかよ」俺は舌打ちした。「今月で三回目だぞ」
『国民の義務だ、文句を言うな』父が即座に叱責する。『で、案件は何だ?』
目の前にホログラムの書類が展開される。今回の閣議決定事項は「自律配送ドローンにおける配送待機時間の短縮特例措置」について。要するに、受取人がすぐに出てこない場合、ドローンはさっさと次の配達に向かっても良いとする規制緩和だ。
「どうする、父さん」
『承認だ承認。物流が滞ると経済指標に響く。チャッチャと判を押せ』
俺は保守端末を操作しようとしたが、雨雲のせいか無線リンクが不安定だった。閣議サーバーへの接続がタイムアウトする。
「くそ、電波が入らない」
『目の前に何があると思ってるんだ。有線を使え、有線!』
父に言われ、俺は公衆電話の受話器を取り上げた。ダイヤル式の重たい感触。テレホンカードスロットの横にある「データ通信」ボタンを押し、保守端末から有線で署名鍵を流し込む。
ピー、ヒョロロロロ……。
懐かしい変調音がボックス内に響く。俺は一国の総理大臣として、埃っぽい電話ボックスから、1200bpsの速度で国策を決定している。なんとも締まらない光景だ。
ふと、ボックスの壁に誰かが勝手に貼ったであろう「紙のカレンダー」が目に入った。金融機関の名前が入った、昭和臭いデザイン。今日の日付、15日に赤丸がついている。
「あ」
俺は思い出した。今日は限定醸造のクラフトビールを、自宅のスマート冷蔵庫が自動発注してくれた日だ。配達予定時刻は……まさに今頃。
『送信完了。内閣承認されました』父が無機質に告げる。
同時に、手首の端末が振動した。自宅のスマートインターホンからの通知だ。
『配送ドローン到着。受取人応答なし。新施行法案に基づき、待機時間を省略して不在処理とします。荷物は持ち帰ります』
「……は?」
俺は受話器を握りしめたまま、ガラス越しに空を見上げた。遥か上空、雨雲の切れ間を、俺のビールを積んだドローンが猛スピードで飛び去っていくのが見えた。
『自分の政策が即座に反映されて良かったな、総理大臣閣下』
父の皮肉な笑い声が、雨音よりも冷たく耳に響いた。