指先の砂、兄の知らない署名
──平成0x29A年04月08日 21:40
窓口のカウンターに積もった灰色の粉を、指先で拭う。センサーダストだ。都市の隅々まで監視するために散布されている極小のマイクとカメラの集合体だが、こうして堆積してしまえば、ただの埃と変わらない。第5金融街の信用金庫、夜間受付ブース。時刻は二一時四〇分を回っている。
「トオル、そのガス検針票、日付が滲んでるぞ。偽造じゃないか?」
脳内で兄さんの声がした。佐伯ケンジ。二年前に交通事故で死んだ兄だ。元証券マンらしく、金勘定の時だけは妙に鋭い。
「平気だよ兄さん。平成一桁台の感熱紙エミュレーションだから、これくらいの劣化は仕様の範囲内だ」
私は目の前の顧客――疲れた顔をした個人事業主の男――から受け取った薄っぺらな紙片を、スキャナに差し込んだ。ジジ、と音がして、アナログな印字データがブロックチェーンの台帳へと変換される。融資の最終審査には、公共料金の領収書による居住実態証明が必須なのだ。
「……そうか。仕様なら仕方ない。しかし、その男の瞳孔、散大しているな。リスク係数を上げろ」
兄さんの指摘はもっともだが、どこか機械的だった。最近、彼の語彙に違和感がある。生前の兄さんは「リスク係数」なんて言葉よりも、「ヤバい」とか「臭う」といった直感的な言葉を使う人だった。
「確認するよ」
私は業務用の折りたたみ携帯を開いた。パカッという乾いた音が、静まり返ったブースに響く。物理ボタンを親指で弾き、中央サーバーへ照会をかける。液晶画面には「i-mode」風の粗いドットで「問い合わせ中…」の文字が点滅していた。
「トオル、署名を急げ。党ドクトリン第4条に基づき、資本の流動性は確保されなければならない」
背筋が冷たくなる。兄さんが「党ドクトリン」を口にしたのは初めてだ。本来、個人エージェントは政治的中立を保つようプログラムされているはずなのに。
「兄さん? 今、なんて言った?」
「え? ああ、早く判子をもらえって言ったんだよ。客、待ってるだろ」
声のトーンが、一瞬で砕けたものに戻る。だが、脳の奥で微かなノイズが鳴り止まない。
私は顧客に生体認証パッドへ指を置くよう促した。男が震える指を黒いガラス面に押し付ける。緑色の光が指紋を走査する。
「認証、完了」
機械音声が告げると同時に、私の脳内で兄さんが呟いた。
「個体識別コード0x99F、統合プロセスを開始。……あ、いや、なんでもない。トオル、今日はもう帰ろうぜ。なんか疲れてるみたいだ、俺が」
契約は成立した。男は安堵のため息をついて出て行く。私はカウンターに残ったセンサーダストをもう一度拭おうとして、手を止めた。
指先に付着した灰色の粉が、微かに明滅している気がした。兄さんの人格データは、本当に兄さんのままなのだろうか。それとも、この埃のように、いつの間にか「何か」に置換され、積もり積もって私を監視しているのだろうか。
折りたたみ携帯を閉じる音が、やけに大きく響いた。