朝の特売、誤接続された署名
──平成0x29A年07月10日 08:10
平成0x29A年07月10日、午前八時十分。
第8商業ブロックのスーパーマーケット「エブリデイ・ライフ」の店内で、俺、日下部翔は苛立っていた。開店まであと二十分しかないのに、店内BGM用のカセットデッキがテープを噛んだのだ。キュルキュルと情けない音を立てて、プラスチックの筐体が止まる。
「翔ちゃん、あせらないの。鉛筆で巻き戻せばいいんだから」
視界の端で、割烹着姿の老婆がのんびりと言う。祖母のトヨだ。享年八十二、死因は老衰。元駄菓子屋の店主だった彼女のエージェントは、こういうアナログなトラブルには強いが、デジタルな不具合にはからっきしだ。
「ばあちゃん、今はそんなことしてる時間ないんだよ。ラーメンの景品、まだ出し終わってないんだ」
俺はテープを強引に引き抜き、ワゴンの上を見る。今週の目玉は、復刻版インスタントラーメン五袋パックに付いてくる「光る昭和怪獣消しゴム」だ。分散SNS「マスト・タウン」のローカル板では、すでにこの景品を目当てにした転売屋の書き込みが散見される。在庫確保は戦争なのだ。
その時、視界の中央に真紅のウィンドウが割り込んだ。
『警告:貴殿は第0x4A1B内閣総理大臣に選出されました。任期はこれより三百秒です』
またか。俺は舌打ちした。ランダム選出される五分間総理。国民の義務だが、今はタイミングが悪すぎる。
「あら、総理大臣かい。偉くなったねえ」
「茶化さないでくれよ。……記憶補助アプリ、起動」
俺はつぶやき、網膜に業務マニュアルと閣議案件を並列展開した。目の前には、店長から送られてきた「特売価格変更リクエスト」の承認ボタン。視界の中には、党ドクトリンに基づく「海洋資源保護法案の一部改正」の承認ボタン。
二つの承認ウィンドウが、拡張現実の中で重なり合う。
「翔ちゃん、お客さん並んでるよ。早く決めな」
祖母の声に、自動ドアの向こうを見る。ガラス越しに、カートを持った高齢者たちが開店を待ち構えていた。彼らの目当ては特売のラーメンだ。国の法律なんて誰も気にしちゃいない。
俺は焦燥感の中で、二つのウィンドウを同時に処理しようとした。右手の指で店長端末の指紋認証に触れ、左手の指で空中の仮想総理認証キーを叩く。
ピ、と電子音が重なった。
『認証エラー:権限情報のクロス・リファレンスを検出』
不穏な警告音と共に、視界がノイズで揺らぐ。記憶補助アプリが「身分・権限の誤照合が発生しました」と淡々と告げた。
五分後、開店のチャイムが鳴り響いた。
俺はカセットテープの修復を諦め、BGMなしで店を開けた。どっと押し寄せる客たち。彼らは一様に、入り口のデジタルサイネージを見上げて驚愕の表情を浮かべている。
そこには、いつものポップな特売広告ではなく、重々しい菊の紋章と共にこう表示されていた。
『内閣総理大臣・閣議決定事項:本日の「しょうゆ味5袋パック」は、国家戦略特別価格にて提供とする』
俺の手元の端末には、逆に「店長代理権限」で否決された海洋資源保護法案のログが寂しく残っていた。祖母がケラケラと笑う。
「国がラーメンを安くしてくれるなんて、いい時代になったもんだねえ」
俺はため息をつきながら、国の最高権威によって三十円引きになったラーメンを、棚に並べ続けた。