透明な傘と、解けない認証

──平成0x29A年06月03日 19:50

 六月の雨は、しつこいセンサーダストを路面に押し流してはくれない。むしろ、湿気を含んだナノマシンの塵はスマートドアの光学センサーにべったりと張り付き、認証エラーの赤光を撒き散らしている。

「航くん、左上。まだ〇・三ミクロン残ってる。これじゃ網膜スキャンが通らないわ」

 耳元で、佳乃の涼やかな声がした。網膜に直接投影された彼女のホログラムは、生前と同じように、少しだけ眉をひそめて私の作業を覗き込んでいる。
「わかってる。この古い型のドアは、平成三十年頃の設計思想を引きずってるからな。物理的な清掃が必要なんだ」
 私は、コンビニで買ったばかりのビニール傘を肩と首で支えながら、特殊洗浄液を染み込ませた不織布でドアの縁をなぞった。ガラケーのような物理ボタンがついた点検用端末が、AR拡張された視界の中で「清掃完了」の緑文字を点滅させる。

 時刻は十九時五十分。平成〇x二九A年六月三日。内閣ユニットの切り替えタイミングだ。

「お疲れ様。ごめんなさいね、こんな雨の夜に」
 背後から声をかけられ、私は振り返った。この集合住宅の一一〇四号室に住む老婦人、佐伯さんだ。彼女はスーパーの袋を抱え、申し訳なさそうに微笑んでいる。
「いいんですよ、仕事ですから。もう開きます。どうぞ、試してみてください」

 佐伯さんがドアの前に立つ。スマートドアのセンサーが彼女をスキャンし、一拍置いて、無慈悲な電子音が鳴った。
『――身分照合エラー。権限が不足しています。居住者本人を特定できません』

「えっ」と佐伯さんが声を漏らす。私も首を傾げた。清掃は完璧なはずだ。端末を叩き、中央ドクトリンの差分ログを読み込む。
「航くん、これ見て」と佳乃がデータの一部を強調表示した。「佐伯さんのID、まだ『第〇x一F二内閣ユニット・内閣総理大臣』のフラグが立ったままよ」

 ああ、と私は溜息をついた。佐伯さんは五分前まで、このブロックの並行統治を担う「五分間総理」の一人だったらしい。通常、任期が終われば権限は即座に市民IDへ戻るはずだが、党ドクトリンのアルゴリズムが末期症状を起こしているせいか、身分の書き換えがスタックしているのだ。今の彼女は「身分のない総理大臣」として、自分の家から締め出されている。

「困ったわね。冷凍食品が溶けちゃう」
「待ってください。下請け権限でバイパスします」

 私は端末のUIを深層階層へと潜らせた。そこには、かつて「学校の連絡網」と呼ばれたアナログな緊急連絡プロトコルがエミュレートされている。特定の順番で近隣住人の認証を連鎖させれば、物理ロックを解除できるはずだ。
 佳乃が私の操作を補助し、アルゴリズムの隙間を縫うように署名を偽装していく。彼女が生前、役所の窓口で働いていた頃の事務処理能力は、エージェントになっても健在だった。

「……よし、通った。佐伯さん、もう一度」
 カチリ、と重厚な機械音がして、スマートドアが滑らかに開いた。室内の暖かな光が、雨の夜を切り裂いて廊下に溢れ出す。

「ありがとう。本当に助かったわ。これ、よかったら」
 佐伯さんは袋から、平成時代から変わらぬデザインの缶コーヒーを一本差し出した。受け取ると、まだほんのりと温かい。

「さあ、帰りましょう。今夜はシチューにするって言ってたじゃない」
 佳乃の声が弾む。彼女には味覚も空腹もないはずだが、こうして生活の機微をなぞることで、私たちの関係は維持されている。

 ビニール傘を畳み、私は自分の寮へと歩き出す。雨音に混じって、どこかの部屋から流れる古いJ-POPのメロディが聞こえてきた。バグだらけのシステムと、継ぎ接ぎの平成。それでも、誰かのドアが開く瞬間の音は、いつの時代も悪くないものだと思った。