年賀状の裏に、時間貸しCPUの残響
──平成0x29A年04月20日 04:00
午前4時。街灯の明かりが、濡れたアスファルトに滲んでいた。
「今日のコース、特に問題ないっすね、先輩」
ヘルメットにつけたインカムから、後輩の声が聞こえる。俺は黙って頷いた。もうすぐ夜明けだ。この時間帯は、街が一番静かで、そして一番、俺たちの仕事が頼りにされる時間帯でもある。
「ん、そうだな。ただ、七丁目のあのビルの、一次配線が少し不安定だって通知が来てる」
俺の耳に装着された自動翻訳イヤホンが、わずかなノイズと共に、後輩の言葉を俺の母、美智子さんの声色で脳内に響かせた。本来なら、彼女自身がこの仕事に就いていたら、どんな声で、どんな指示を出しただろうか。
「配線、ですか…」
母さんの声で返されると、なんだか不思議な感覚になる。父さんは、昔、自分で修理するような人間だった。俺が子供の頃、壊れたウォークマンを分解して、基盤を眺めていた姿を思い出す。あの頃は、まだ「自分で直す」というのが、当たり前だったんだ。
「ええ。ただ、システム側で自動修復を試みてるみたいだから、現場で何か異常があれば、また通知が来るはずです。ご心配なく」
代理エージェントの、冷静で的確な声。本来の美智子さんの、もう少し温かい響きとは違うが、これもまた、彼女の一部なんだろう。
配達用バイクのグリップを握る手に、冷たさが伝わる。この街では、生活インフラの微細な故障は、日常茶飯事だ。ブロックチェーンで繋がれた内閣ユニットが、常に最適解を計算しているはずなのに、どこかで小さな綻びが生じる。まるで、古いプログラムのバグみたいに。
「そうか。ご苦労さま」
俺はそう返して、イヤホンを切った。
配達先の一つ、旧市街の古いアパート。インターホンを押すと、眠そうな顔をした老婦人がドアを開けた。俺は手早く荷物を渡し、端末でサインを貰う。
「いつもありがとう。これで、お父さんからの年賀状、ちゃんと届くからね」
彼女はそう言って、俺の胸元に貼られた、小さな近傍通信タグに手を触れた。タグは、親族間の情報共有を円滑にするためのものだ。老婦人のタグは、彼女の亡くなった夫、つまり俺の父の、故郷の住所と紐づいていた。
「…はい」
俺は、何となく、答えた。
父からの年賀状。いや、正確には、父の人格データの一部を、年賀状として再構成したものだ。毎年、元旦に届く。今年は、父が昔使っていた、SONYのウォークマンのデータも一緒に送られてきた。そのデータには、父が大学時代に録音した、カセットテープの音源も含まれていた。
「…あの、先輩」
後輩が、俺のバイクに乗りながら、少し躊躇った様子で呼び止めた。
「はい?」
「今日、七丁目の配線、僕が代わりに確認しに行きましょうか? 先輩、なんだか、今日の調子、いつもと違う気がして…」
俺は、無言で、ヘルメットのバイザーを下ろした。後輩の、気遣ってくれている声が、イヤホンを通して、美智子さんの声色で響く。彼女は、きっと、俺の戸惑いも、父のウォークマンのデータに耳を傾けていた、あの瞬間も、全て、分かっているのだろう。
「いや、大丈夫だ。俺が行く。…それに、父さんのウォークマン、時間貸しのCPUで、まだ解析が終わってないんだ。もしかしたら、俺宛ての、何か、新しいデータが入ってるかもしれないから」
本当は、そんなこと、分かっている。父からの年賀状も、ウォークマンのデータも、全ては、党ドクトリンに基づく、最適化された情報伝達システムの一部に過ぎない。それでも、俺は、あのカセットテープのノイズの中に、父の、生きていた頃の、鼓動を聞いているような気がするんだ。
「…はい。分かりました」
後輩は、それ以上何も言わなかった。
俺は、バイクに跨り、エンジンをかけた。イヤホンから、美智子さんの声が、かすかに聞こえる。「無理しないでね」と。俺は、そっと、父から届いた年賀状のデータを開いた。そこには、母からの、短いメッセージが、添えられていた。
「拓海、元気でね。いつか、お父さんのウォークマン、一緒に聴こうね」
俺は、思わず、笑みをこぼした。