駐輪場の札と、朝焼けの誤認
──平成0x29A年05月08日 06:00
防災無線のチャイムが鳴ったとき、あたしはまだ駐輪場にいた。
五月の朝六時。空が薄い橙色に焼けていて、自転車のハンドルに結んだ紙札がかすかに揺れている。「C-17 / 堂本」と油性ペンで書かれた札。ラミネートもされていない、ただの厚紙。こういうのが好きだ。データベースに紐づかない、手触りのある所有の証明。
「なっちゃん、そろそろ行かんと」
左の耳元で、おばあちゃんの声がする。堂本トシエ、享年八十二。あたしの母方の祖母で、元消防団の事務員。エージェントになってからも相変わらず朝が早い。
「わかってる」
あたしは自転車を押して、旧越谷エリア第三防災訓練場に向かう。今日は半期に一度の広域合同避難訓練。あたし——堂本菜月、二十六歳、防災訓練インストラクター——の担当は、町内会単位の一次避難誘導シミュレーションだ。
訓練場の入口で、AR広告が視界の右端にちらつく。カップヌードルの限定キャンペーン。「三食分のバーコードを集めて応募! 当たりは復刻フォーク&レンゲセット!」と、90年代っぽいドット絵のキャラクターがぐるぐる回っている。あたしのガラケー——通話とSMS専用のやつ——では応募できない。分散SNSのアカウント連携が必要らしい。おばあちゃんが「景品なんて昔からそう、面倒なことさせて気を引くんよ」と笑う。
訓練場の受付端末に職員証をかざす。画面に赤い警告。
『身分照合エラー:堂本菜月 — 第0x7A2F1内閣ユニット閣僚権限が付与されています。訓練インストラクター権限と競合。上位権限で続行しますか?』
は?
あたしは閣僚になった覚えがない。五分間総理のランダム指名は経験があるけれど、閣僚権限が訓練場の端末に降りてくるなんて聞いたことがない。
「トシエさん、これ何」
「うーん」とおばあちゃんが唸る。「照合の鍵が古いんやないの。ドクトリン署名、最近ほとんど割れとるって言うし」
たぶんそうだ。アルゴリズムの劣化で、権限トークンの境界が曖昧になっている。訓練用の仮権限と本番の閣僚権限が同じハッシュ空間に落ちたのだろう。
端末の前で立ち尽くしていると、参加者の列ができ始める。おじいさんが一人、MDプレーヤーのイヤホンを首にかけたまま並んでいて、その隣の中学生はストリーミングの字幕付き防災動画を腕のディスプレイで流し見している。
「菜月先生ー、始まらないんですかー」
焦る。受付を通らないと訓練ログが記録されない。記録がないと町内会のポイントがつかない。ポイントがつかないと、次の備蓄配分に影響する。
あたしは深呼吸して、端末の下位メニューを開いた。「権限を破棄して再照合」——このオプションがグレーアウトしている。上位権限は本人の意思だけでは破棄できない仕様。閣議で承認された党ドクトリン署名が要る。
「おばあちゃん、消防団時代にこういうの、なかった? 書類の判子が違って動けないやつ」
「あったあった。所長の判子がないと放水できんて、火ぃ目の前にして待たされた」
「どうしたの」
「隣の分団から判子借りた」
隣の——。
あたしは分散SNSを開いた。ガラケーではなく、訓練場の共用端末から。近隣の内閣ユニットに閣僚として割り当てられている人を検索する。三キロ先の旧草加エリアに一人、今まさに五分間の任期中の人がいた。パン屋の店主、五十七歳。
メッセージを送る。「権限の誤照合で訓練が開始できません。閣議決定で私の閣僚権限を解除してもらえませんか」
返信は二分後。「署名したよー。パン焼きながらだけど大丈夫かな?」
端末が緑に変わった。「身分照合完了:堂本菜月、防災訓練インストラクター」。
あたしは振り返って、並んでいる人たちに頭を下げた。「お待たせしました。訓練を始めます」
おばあちゃんが小さく言った。「なっちゃん、あんた判子借りるの上手になったね」
声が少しだけ震えていた。消防団で同じことをしていた頃の記憶が、エージェントの奥で揺れたのだろう。あたしは何も言わず、ただ紙の名簿を広げた。おばあちゃんの筆跡に似た自分の字で、参加者の名前をひとつずつ書き入れていく。
駐輪場の紙札と同じだ。データベースに紐づかない、手触りのある——継いだものの、重さ。