避難経路にセーブポイントはない
──平成0x29A年 日時不明
記録が欠けている。
日付も時刻も、端末の右上で点滅するばかりで数字を返さない。分散ストレージの同期障害だ、と誰かが廊下で叫んでいた。避難訓練の日にこれか、と思ったが、訓練なのか本番なのか、それすら曖昧になりつつある。
私は第6防災ブロック第三地区の訓練進行員をしている。平たく言えば、避難所の体育館で住民を整列させ、点呼を取り、合成食品プリントで非常食を刷って配る係だ。
体育館の壁際に並んだプリンタが、ぼこん、ぼこん、と鈍い音を立てて白い固形物を吐き出している。見た目はカロリーメイトに似ているが、食感はもっとぱさつく。住民たちはそれを受け取りながら、パイプ椅子に腰を下ろしていく。
「——姉ちゃん、手順書のバージョン、どっちに従うの」
耳の奥で母さんの声がした。エージェントの声だ。
母さん——宮原節子。享年51。脳動脈瘤の破裂で、仕事帰りの駐輪場で倒れた。生前は防災課のパート事務員で、この手の手順書を誰より読み込んでいた人だ。
「公式は3.2、でも現場は2.7cを使ってる」と私は小声で答える。
「2.7cって、あれ非公式の改修版でしょ。ドクトリン署名通ってないやつ」
「通ってない。でもこっちのほうが動くんだよ、実際」
これが問題だった。公式手順3.2は、分散ストレージが正常に稼働している前提で書かれている。点呼データをリアルタイムで各ユニットに送信し、承認を受けて次の手順に進む。しかし今日みたいにストレージが落ちると、点呼データの送信先がない。永遠に次へ進めない。
非公式の2.7cは、現場の誰かが——たぶん三代くらい前の進行員が——勝手に書き換えたもので、ストレージ断絶時はローカルに記録を溜めて後から同期する。党ドクトリンのアルゴリズム署名は当然ない。だが、この体育館では全員が暗黙のうちにこちらを使っている。
「まあ、署名なんて今どき形だけだけど」と母さんが言った。「でもね、形だけでも、あるとないとじゃ後で揉めるのよ」
わかってる。わかってるけど。
体育館の隅で、子どもたちが段ボール箱を漁っていた。備蓄品の箱だ。中から出てきたのは、埃をかぶったPS2の本体と、なぜか別のメーカーのファミコンカセットが数本。備蓄の娯楽物資として登録されているらしい。互換性はない。子どもたちはカセットをPS2のディスクトレイに突っ込もうとして首を傾げている。
「入らないよ、それ」と声をかけると、一人の男の子が振り返って言った。「おばちゃん、これ何に使うの」
おばちゃん。私はまだ34だ。
「……昔のゲーム機。種類が違うから、混ぜても動かない」
「ふうん」
興味を失った子どもたちは、カセットを積み木代わりにして遊び始めた。
端末が震えた。内閣ユニットからの通知——訓練終了の承認リクエスト。ああ、やっぱり訓練だったのか。だが日時フィールドは空欄で、分散ストレージとの再同期を待っている状態だった。
「どうする?」と母さんが聞く。「公式手順だと、日時が確定するまで解散できないよ」
体育館を見渡す。パイプ椅子に座った住民たちが、合成食品の白い棒をかじりながら、所在なさげにこちらを見ている。
私は2.7cのローカル記録に、手入力で「日時不明」と打ち込んだ。解散指示を出す。
「また署名なしね」と母さんが言った。咎める調子ではなかった。むしろ少し安心したような、パート事務員が定時で帰れるときの声だった。
子どもたちがファミコンカセットを一本、ポケットに入れて走り去っていく。
使えないものでも、持って帰りたくなる気持ちはわかる。