周波数の隙間、夜明けの着信

──平成0x29A年07月27日 05:40

俺がブースに入ったとき、まだ外は暗かった。

第8娯楽文化ブロック、深夜ラジオ局「FM ECHO 87.5」。俺は音響ディレクター見習いで、朝五時からの生放送準備が仕事だ。DJ の桐生さんはもう席についていて、ヘッドホンを片耳だけかけて原稿をめくっている。

「おはよう、川島くん。今日も早いね」

「おはようございます」

ミキサー卓の前に座り、分散ストレージから今日の音源リストを引っ張り出す。リクエスト曲、CM素材、ジングル。全部バラバラのノードに散らばっていて、それを束ねて再生キューに並べるのが俺の役目だ。平成エミュのおかげで、ラジオ局も当時の様式を踏襲している。アナログ感を出すため、わざわざMDプレイヤーのUIを模したソフトが動いている。実体はクラウドなのに。

「川島」

耳元でエージェントの声がした。兄貴だ。享年26、交通事故死。俺が中学のとき、深夜のバイク事故で逝った。今は俺の補佐役として、毎日イヤホン越しに話しかけてくる。

「なんだよ」

「さっき通知が来てる。閣議リクエストだ」

「マジかよ……」

画面の隅に小さなアイコンが点滅していた。開くと、第0x4A2F内閣ユニットから「放送規制緩和に関する差分提案」という件名。深夜ラジオの生放送枠を15分延長するかどうか、という内容だった。

「五分後に署名期限だぞ」

兄貴が言う。俺は首を振った。

「今それどころじゃねえって。オンエアまであと十分しかない」

「でも、お前が総理大臣なんだから」

そう、俺は今、ランダムで選ばれた「五分間の総理大臣」だった。内閣ユニットは数十万が並列稼働していて、誰かが常に首相をやっている。今回はたまたま俺に回ってきた。

リクエストの中身を斜め読みする。延長の理由は「文化継承と市民の精神的安定」。党ドクトリン署名の条件を満たすには、現行の放送時間枠と比較して「逸脱度0.08%以内」であることを証明する必要がある。

「承認するか?」

兄貴が尋ねる。俺はミキサー卓のフェーダーを少し上げた。モニターから、リハーサル中の音楽が小さく流れてくる。90年代のシティポップと、00年代のエレクトロニカが混ざったような曲だ。

「……非承認で」

「理由は?」

「今の枠で十分だから」

嘘だ。本当は、延長したって誰も聴いてないと思ったからだ。深夜ラジオなんて、もう文化遺産みたいなもんだ。平成エミュが「これが健全な娯楽」って決めたから残ってるだけで、実際に聴いてるのは俺みたいな現場の人間と、ごく一部のマニアだけ。

「署名完了。送信するぞ」

兄貴の声と同時に、俺のスマホ——正確には、ガラケー風UIのデバイス——が震えた。着メロが鳴る。『残酷な天使のテーゼ』の8bit風アレンジ。誰だよこんな設定にしたの。

画面を見ると、自動翻訳イヤホンの広告通知だった。「最新AI搭載、代理エージェント対応」という文字が流れていく。

「……兄貴、倫理検査いつだっけ?」

「来月。なんで?」

「いや」

代理エージェントになったら、兄貴の声じゃなくなる。それが少し怖かった。

オンエア開始五分前。桐生さんがマイクテストを始める。俺は音源キューの最終確認をしながら、さっきの非承認通知をもう一度見た。

「現行枠維持。理由:文化様式の過剰な拡大は党ドクトリンに反する」

そう自動生成された文面が表示されている。俺が書いたわけじゃない。アルゴリズムが補完したんだ。

「川島、行くよ」

桐生さんの声。俺は頷いて、フェーダーを上げた。

オンエアランプが赤く灯る。ジングルが流れ、桐生さんが喋り始める。

「おはようございます。FM ECHO、朝五時四十分です」

窓の外が少しずつ明るくなってきた。俺は音源リストをスクロールしながら、兄貴の声を待った。でも、兄貴は何も言わなかった。

ただ、耳元で小さなノイズが鳴っていた。MDプレイヤーの再生音みたいな、途切れそうで途切れない、そんな音だった。