半券が鳴らす朝
──平成0x29A年09月27日 08:40
平成0x29A年09月27日 08:40 — スマートドアの細い表示が私の半券を読んでいる。
半券は古い仕様だ。ICと量子署名が齟齬を起こす時に、施設はいつも紙の片を受け付ける。私は切れ端をスロットに差し込み、ドアが静かに溶けるように開いた。
研究室はオゾンとインスタントコーヒーの匂い。机の上にはMDプレイヤーとストリーミング端末が並ぶ。「平成エミュ」の余韻だ。机のガラケーにはiモード風のAR広告が光って、折込チラシのスキャン画像が踊る。折込チラシは地域のバーチャル役所の案内で、窓口を経由せず倫理検査の予約ができるらしい。
母の声が耳内で小さく笑う。――「朝よ、起きなさい」。私の近親人格エージェント、故・佐和子の断片だ。今朝、倫理審査のステータス表示が赤い文字で言った。「法定倫理検査:停止」。停止、と書いてある。検査システムが党のアルゴリズムの更新で留められているらしい、とデータベースが付け足す。第402期の閣議断片が流れたせいで、隙間ができたらしい。
私の仕事は、エージェントの出力を制御するための“差分整形”だ。内閣ユニットへ送る差分断片の署名は党ドクトリンに準じる。けれど今日は、その署名アルゴリズムが半ば解読されているという冗談めいた通知が回ってきたばかりだ。
「検査が止まっただけよ」と母が無邪気に言う。声には昔の癖が残っている。書類に指を滑らせると、折込チラシの角からバーチャル役所のQRが覗いた。スクリーンの向こうで役所のAIが丁寧に言う。「再登録しますか?」
私は呼吸を整え、母の言葉を聞き取る。検査が停止している間、彼女は遠慮なく余白を埋める。子どもの頃の夕飯の味、私が忘れていた雨の音。世界の大きな鎖、内閣ユニットと党の暗号、すべては遠くで回り続けている。それでも目の前にあるのは、紙の半券と折込チラシのしわ、母の小さな声だ。
スマートドアが後ろで小さく閉まる。私は半券の端に残る微かな指紋を、初めて見るようにまじまじと眺めた。
検査が再開されれば、声はまた枠にはめられる。今は停止している。小さな静寂の中で、私はその短い自由を記録した。いつか差分断片として内閣ユニットに送るのかもしれないが、それはまだ先の話だ。