紙札の影で、空中がちらつく
──平成0x29A年 日時不明
いつから続いているのか分からない記録欠損のせいで、私の「出勤」はいつも途中から始まる。
研究棟の廊下はワックスの匂いがして、壁際のユビキタスセンサー網が、誰かの体温を拾っては細いノイズを返す。天井の点検口の奥で、微かにファンが唸っている。
「今日も水、出てないの?」
耳元の骨伝導から、父の声がする。——父・貴志。生きていた頃の口調のまま、私のエージェントになっている。
「出るには出る。…ただ、研究用ラインだけ圧が落ちる」
私は実験室の手洗いにコップを当て、蛇口を捻った。透明な水が、いったん勢いよく出て、すぐに咳き込むみたいに細くなる。泡立てた洗剤だけが虚しく白い。
空中ディスプレイを指で引き寄せると、設備ダッシュボードが浮かぶ。圧力センサのグラフは、谷が一つだけ深い。ほかの階は平常。研究棟のこの区画だけ。
「センサーは嘘つかない、って言いたいけどな」父が言う。「嘘をつくのは、センサーじゃなくて…」
「分かってる。差分だよね」
私の端末には、内閣ユニットからの通知が小さく点滅していた。
《第0x4A2C1内閣ユニット:生活インフラ節水最適化/研究区画に適用》
《審議:承認》
《署名:党ドクトリン互換・暫定》
暫定、とある。最近よく見る単語だ。暫定が重なると、恒久になる。
「研究区画は生活インフラじゃないんだけど」私は独り言みたいに言って、指先で「異議」フォームを開いた。差分断片を投げれば、どこかのユニットがレビューする。誰かが、たった五分、総理になるかもしれない。
父が鼻で笑う。「五分で水圧戻せたら、天才だな」
私は安全靴を鳴らし、機械室へ向かった。廊下の掲示板には折込チラシが几帳面に貼られている。『平成特売・焼きそばパン』『MDプレーヤー下取りでサブスク三ヶ月無料』。研究棟なのに、近所のスーパーの匂いがする紙。
その下に、駐輪場の紙札が一枚、風でめくれていた。番号と、手書きの「返却厳守」。誰かが置き忘れたのだろう。私はそれを剥がしてポケットに入れた。紙の角が、指腹に引っかかる。
機械室のドアはセンサーが認証して開く。ところが今日は、開いた瞬間に空中ディスプレイが一秒だけ乱れ、別のメニューが割り込んだ。
《あなたは現在、第0x4A2C1内閣ユニット 内閣総理大臣です》
心臓が一拍遅れる。父が黙った。
「……やめてよ、こういうの」
私は思わず声に出した。誰に言ったのか分からない。空中の文字は淡々としている。
《任期:残り――》
表示は欠けて読めない。記録欠損は、こういう時にまで噛んでくる。
背中の汗が冷える前に、私は「生活インフラ節水最適化」差分を開いた。研究区画のラインが「生活」扱いになっている根拠が、薄い暗号の膜で隠されている。解読ツールは社内規定で封印——のはずだが、父が軽く咳払いした。
「規定は、紙札みたいに風でめくれる」
私はポケットから、さっきの駐輪場の紙札を取り出した。裏は白い。白い紙は、なぜか認証に通りやすい。端末のカメラで紙面を読み込ませ、そこに一時鍵を焼いた。
「そんな用途じゃない」私は笑いそうになって、笑えなかった。
空中ディスプレイに《署名生成》のボタンが現れた。党ドクトリン互換・暫定。互換、という逃げ道。
父が言う。「水圧、戻すなら今だ。研究の手は、止めるな」
私は押した。
《第0x4A2C1内閣ユニット:差分変更/研究区画の節水適用を除外》
《署名:党ドクトリン互換・暫定》
《反映:保留》
保留。
その瞬間、ユビキタスセンサー網が一斉に小さな警告音を鳴らした。圧力グラフの谷が、浅くなるのではなく、別の場所に移動する。研究棟の上階——職員休憩室。
「……あっちの自販機の給水、死ぬな」
父が、久しぶりに声を立てて笑った。「研究者は水が飲めて、代わりに休憩室が干上がる。平成だな。根性論で乗り切れ、ってさ」
廊下へ戻ると、折込チラシの焼きそばパンが、やけに美味そうに見えた。私は紙札を眺める。『返却厳守』。
返す相手が、どこにもいないのに。
空中ディスプレイがまた一瞬乱れ、私の任期表示だけが消えた。代わりに、乾いた通知。
《内閣総理大臣セッション:終了》
私は蛇口のある実験室に戻り、もう一度水を出した。圧は戻っている。誰かの喉は渇くだろう。
父が小さく言った。「お前、いい総理だったよ。五分も、なかったけど」
私はコップの水を見つめた。透明で、何の味もしない。なのに、喉の奥に、焼きそばパンのソースみたいな苦味が残った。