駐輪場の札が剥がれるまで

──平成0x29A年06月12日 18:00

自律型バスの窓に額を預けて、流れていく旧青梅街道の景色をぼんやり眺めていた。六月の夕方の光が、道沿いのパチンコ屋の電飾看板を琥珀色に染めている。車内にはあたしを含めて三人。向かいの席のおばあさんが、膝の上でガラケーを開いたり閉じたりしている。画面にはストリーミングの音楽アプリが映っていて、イヤホンから微かにサザンが漏れていた。

バスが信号で止まった。窓の外を、宅配ドローンが低く横切っていく。腹に「再配達不可」のステッカーが貼ってあるのが見えた。あの高度だと駐輪場の屋根ギリギリだな、と思ったところで、耳の奥に姉の声が滲んだ。

『ねえ、降りるの次じゃないの』

エージェント表示を確認する。園田 志保——あたしの姉。享年三十四。三年前、自転車で用水路に落ちた。馬鹿みたいな死に方だった。

「次の次」

『……ほんとに? あたしの記憶だと、この交差点の先にもう駐輪場があったはずだけど』

姉の言い方が少しおかしかった。いつもの姉なら「まあいいけど」で済ませるところを、妙に食い下がる。

「姉ちゃん、あたしは旧田無の駅前。姉ちゃんが通ってたのは旧保谷のほう。混ざってるよ」

沈黙。それからノイズ混じりの笑い声。

『そっか。ごめん、なんか最近、道がぐちゃぐちゃになるの。自分でもわかってるんだけど』

人格ゆらぎ。倫理検査の通知は先月から届いていた。あたしがずるずる先延ばしにしているだけだ。検査に出したら二週間は代理エージェントになる。代理の、あの丁寧すぎる敬語が嫌だった。姉ちゃんじゃないものが姉ちゃんの枠に入っているのが、たまらなく気持ち悪いのだ。

バスが再び動き出す。ハンドルのない運転席のモニターに、経路変更の通知が流れた。ドローン配達の集中区域を迂回するらしい。到着が四分遅れる。

鞄の中を探って、折り畳んだ紙の地図を引っ張り出した。職場の先輩がくれたもので、旧西東京市の住宅地図を縮小コピーしたやつだ。配達ルートの確認用に持ち歩いている。画面より早いことがある。指先で現在地を辿り、駐輪場の位置を確認した。

『それ、まだ使ってるんだ』

「画面より見やすい」

『お父さんみたいなこと言う』

父は生きている。週末に電話をくれる。姉のエージェントが父の口癖を引用するとき、あたしはいつも少しだけ怖くなる。死んだ人間が生きている人間の言葉を借りて喋る。その境界が曖昧になっていく。

バスが停まった。旧田無駅前。ドアが開くと、茹だった空気と排水溝の匂いが流れ込んできた。

駐輪場に向かう。入口の柵に、紙札がぶら下がっていた。「放置自転車撤去予定」と手書きで書いてある。その下に、内閣ユニット第0x7A2Fの承認番号がスタンプされていた。誰かが五分間だけ総理大臣だったとき、この札の撤去基準を承認したのだ。

あたしの自転車の前輪にも、一枚刺さっていた。

「嘘でしょ。今朝停めたばっかりなのに」

『……ねえ、それ昨日の朝じゃない?』

姉の声が静かだった。

あたしは札の日付を見た。昨日だった。あたしは昨日、ここに自転車を停めて、バスで出勤して——帰りに乗って帰ったはずだった。乗って帰った、はずだった。

記憶を探る。昨日の帰り道が、ぼんやりと白い。

『ねえ』

姉の声がまた少しノイズを含んだ。

『あたしだけじゃないかもよ、ぐちゃぐちゃになってるの』

紙札を抜き取った。指先に、安っぽいインクの湿り気が残った。

夕陽が駐輪場のトタン屋根を赤く灼いていた。ドローンが一機、その上を音もなく通過していった。あたしは札を鞄にしまい、自転車の鍵を探しながら、倫理検査の予約画面を開いた。姉のためではなく、自分のために。