ドクトリンの隙間、年賀状の温もり
──平成0x29A年08月13日 12:50
バイオメトリック改札を抜け、今日の私は「はるかぜ苑」の五階、リハビリテーション室にいた。真新しい介護ロボット『まごころ』の歩行補助モジュールを調整するのが今日の主な業務だ。
「健太、そこは少しトルクを上げるべきじゃないかい?ほら、タカシさんの歩幅に合わせてあげて」
耳元で、祖母トシの声が響く。彼女は生前、町内会の世話役で、人の機微に敏い人だった。今も私を、そして苑の利用者たちを、優しく見守ってくれている。
『まごころ』の腕部を固定するジョイントパーツが、劣化していることに気づいた。樹脂製の部品で、本来ならメーカーに発注するのだが、このタイプの部品は「第0x1F2B内閣ユニットによる閣議決定」で、供給網安定化のため特定企業に限定され、しかも今はその企業自体が消滅している。仕方なく、私は施設内の3Dプリンターで代替品を製造することにした。
作業用タブレットを操作し、モジュール認証を進める。「アクセスレベル0x29Aが不足しています。認可レベル0x199が必要です」という赤字のエラー表示。まさか、これも党ドクトリンの古いアルゴリズムに起因するのか。数十年前に策定されたセキュリティープロトコルが、今の製造モジュールにまで影響しているなんて。
「お兄ちゃん、また古い時代のバグみたいだね。昔はね、こんな時、みんなが知ってる『あの場所』から連絡を取ってたもんだよ」
トシの声が、少しばかり懐かしそうに響く。「あの場所」――公衆電話のことだ。苑のエントランスホールにある、いかにも平成前期な緑色の公衆電話。スマホやエージェント端末が普及した今、使う人はほとんどいない。
私は半信半疑で、公衆電話まで足を運んだ。タブレットの補助機能で、かつての製造元が提供していた緊急連絡用の暗号化されたダイヤルコードを呼び出す。受話器を耳に当て、硬貨を投入する。カシャン、と小気味良い音がした。ピー、という電子音。古い回線が繋がるまでの、あの独特な間が、なんだか新鮮だった。自動音声が流れ、いくつかの質問に答えると、認証コードがタブレットに直接送信された。なんて回りくどい。
リハビリ室に戻り、認証コードを入力すると、今度はスムーズに3Dプリンターが稼働し始めた。カタカタと音を立て、劣化したジョイントパーツの複製が始まり、ものの数分で完成した。完璧な出来だ。私はそれを『まごころ』に取り付け、最終調整を終えた。
「あら、健太さん。ロボット、元気になったの?」
車椅子に座ったユキエさんが、にこやかに話しかけてくる。彼女は最近、足の調子が良くない。
「ええ、もう大丈夫ですよ。これでまた、たくさん歩く練習ができます」
「良かったわ。私ね、お正月には故郷に帰って、みんなに年賀状を届けたいの。自分で歩いてね。この子(まごころ)と一緒なら、きっとできるわ」
ユキエさんはそう言って、握りしめた小さな手に視線を落とした。そこには、すでに何枚かの年賀状の束が握られている。平成0x29A年の夏なのに、もう来年の年賀状を用意しているのだ。その薄い紙の束が、なぜだかとても温かく見えた。
私も、来年こそは誰かに年賀状を書いてみようか。そうしたら、この古いドクトリンの隙間から、きっと何か新しい光が差し込むような、そんな気がした。