未払い残高の地図、朝霧のバス

──平成0x29A年01月21日 06:50

 午前六時五十分。自律型バスのタイヤが古いアスファルトを噛む、低く鈍い音が響いている。車内には私しかいない。いや、正確には私と、私の網膜にだけ映る姉だけだ。

「玲司、ネクタイ曲がってる。それじゃあ顧客の信用スコア、開始五秒でマイナス査定だよ」
 視界の端で、姉の沙織が呆れたように腕を組んでいる。享年三十二、死因は過労による脳卒中。生前は消費者金融のエリアマネージャーとして鳴らした彼女は、死後も私の業務支援エージェントとして、その鋭い舌鋒を振るっていた。

 私は首元のノットを直しながら、手元のガラケーを開いた。「パカッ」という乾いた音が、静かな車内に響く。支給されたこの端末は、平成中期の仕様を忠実に再現した業務専用機だ。物理ボタンの感触は悪くないが、画面の解像度が粗すぎて、細かい契約条項を読むには骨が折れる。

 窓の外は、灰色の靄がかかっていた。大気中を漂う微細なセンサーダストだ。都市のあらゆるデータを収集し終え、役目を終えて塵となったそれらが、朝霧のように低く垂れ込めている。バスのワイパーが、ガラスに付着したダストを神経質な動作で拭い去った。

 その時、ガラケーの画面が激しく明滅した。十六和音の電子音がけたたましく鳴り響く。
『緊急通知:第0xA892内閣ユニット・総理大臣権限を付与(五分間)』

 またか。私は小さく息を吐いた。党のランダム選出アルゴリズムは、早朝の通勤時間だろうと容赦がない。
 目の前に、ARウインドウが展開される。今回の決裁案件は『第4金融ブロック・特別債権回収計画の承認』だった。

「うわ、エグい案件回ってきたね」姉が画面を覗き込む。「これ、担保物件の強制収用じゃない。承認しなよ、どうせ焦げ付いた不良債権だし」

 私は手元の鞄から、分厚いファイルを取り出した。デジタルデータが信用できない古い区画の案件には、必ず物理的なバックアップが存在する。現れたのは、折り目だらけの紙の地図だった。
 党のドクトリンによれば、経済停滞を招く不良資産は直ちに流動化すべきだ。アルゴリズムも『承認』を推奨している。ガラケーの『決定』ボタンに親指をかける。

 ふと、紙の地図の隅に目が止まった。対象となる古い雑居ビルの場所に、赤ペンで『ここの自販機、当たり付き』と手書きのメモが残っている。筆跡は震えていて、おそらく前の持ち主のものだ。
 地図の発行年は「平成18年」。その頃の空気感が、紙の匂いと共に立ち上る。

「……玲司? 何止まってんの。あと二分で権限切れるよ」
「このビル、一階が定食屋になってる」私は地図と、添付された古い調査写真を交互に見た。「データ上は空き家扱いだが、先月の電気使用量に揺らぎがある。誰か住んでるか、営業してる」
「だから何? ドクトリン違反の不法占拠者でしょ。潰して更地にして、新しいコインパーキングにするのが正解」

 姉の言うことは正しい。それがこの国の、四百回以上繰り返された『平成』を維持するための最適解だ。
 だが、私はガラケーの十字キーを操作し、カーソルを『非承認(差し戻し)』に合わせた。

「はあ? あんた、馬鹿なの? 評価下がるよ」
「紙の地図と現行データの不整合を理由にする。現地調査が必要だとタグ付けすれば、執行は三ヶ月は伸びる」
「……甘いんだよ、昔から」

 私は『確定』ボタンを押した。送信完了のバーが伸びていくのと同時に、五分間の総理任期が終了する。
 バスは速度を落とし、目的地の停留所へと近づいていた。プシュー、という排気音と共にドアが開く。

 鞄に地図をしまいながら、私はバスを降りた。冷たい外気が頬を刺す。
「無駄な延命処置だよ。どうせ三ヶ月後には取り壊される」姉の声が少しだけ柔らかく響いた。
「その三ヶ月で、店主が逃げる準備くらいはできるだろ」
「……そうね」

 姉の姿がフッと薄くなる前に、彼女は視線を逸らして言った。
「あそこの定食屋、あんたが学生の頃、私が内緒でバイトしてた店なんだわ。……ま、生姜焼きは美味しかったよ」

 私は足を止めて振り返ったが、バスは既に無人で走り去り、姉の姿も消えていた。センサーダストが朝日に照らされ、金色の粒となって舞っている。
 私はネクタイを締め直し、契約の待つビルへと歩き出した。