鍵束のゆくえ、省人化レジの朝
──平成0x29A年10月24日 10:10
受付カウンターの向こう側で、フロッピーディスクが一枚、立てかけてある。ラベルには「観光案内所 第6ブロック 来訪者マニュアル ver.3.1」と油性ペンの手書き。誰がいつ書いたのかは知らない。私がここに配属されたときにはもうあった。読み込む機械もない。
午前十時十分。自動ドアの向こうに秋の光が差している。
「おはようございます、ご来訪ですか」
入ってきたのは六十代くらいの女性で、肩から提げたポシェットにはi-mode対応のストラップがぶら下がっていた。ただし本体はARグラスと連動するタイプの端末で、画面にはサブスクの旅行雑誌が映っている。
「ええ、あの——遺伝子ネットワークの件で通知が来まして」
私の耳元で、おばあちゃんの声がした。
『通知の種別、確認しなさい。ネットワーク保守なら管轄外よ』
エージェント。私の祖母、田所ハツエ。享年八十一。膵臓がんで逝った。生前は旅館の女将で、客あしらいだけは誰にも負けなかった。今も負けていない。
「少々お待ちください」
端末を操作する。来訪者の基本照会——名前、居住ブロック、訪問目的。画面の片隅に遺伝子ネットワークのステータスが薄く表示される。普段は気にも留めない、あの網目。皇室由来の遺伝子マーカーが国民に薄く行き渡っているという、あれだ。保守も更新も、ほとんど自動で回っている。はずだった。
女性の表示欄に、小さな赤い点が灯っていた。
『微細異常。ノードの接続遅延ね。最近多いの、これ』
「ネットワーク側の軽微なエラーのようです。観光案内とは別の窓口になりますが——」
「でもね、ここに来なさいって通知に書いてあったの」
女性がARグラスを外し、裸眼で私を見た。通知文面を端末ごと差し出される。確かに、第6観光案内所が指定されている。誤配信か、あるいはアルゴリズムの気まぐれか。最近は党ドクトリンの署名検証が甘くなっているせいで、行政通知の宛先が時々おかしくなる。
「わかりました。こちらで仮受付いたしますね」
私はカウンター下から用紙を出した。紙だ。端末入力でもいいのだが、年配の来訪者には紙のほうが落ち着くことを、祖母が教えてくれた。生前ではなく、エージェントになってから。
記入を待つ間、私は自分のデジタルツインの同期状況をちらりと確認した。観光案内所の業務では、来訪者対応のログが自動的にツインへ反映される。私のもう一人の私が、どこかのサーバで同じ朝を過ごしている。ツインの最終同期は七分前。正常。
女性が用紙を返してきた。住所欄の筆跡が少し震えている。
「あの、ついでにお聞きしたいんですけど」女性はポシェットから鍵の束を取り出した。真鍮やアルミの鍵が七つか八つ、じゃらじゃらとリングに通してある。「この鍵、どれがどこのか、もうわからなくなっちゃって」
観光案内所で聞くことではない。でも祖母が耳元で囁いた。
『聞いてあげなさい。こういう人は、鍵のことを聞きたいんじゃないの』
私は頷いて、省人化レジの横にある小さな椅子を勧めた。レジといっても案内所の物販コーナー用で、ご当地キーホルダーと絵葉書しか売っていない。客が来ると画面が光って自動精算する。今は暗い。
女性は椅子に座ると、鍵束をテーブルに置いた。
「主人が亡くなったとき、全部まとめて引き出しに入れたの。主人のエージェントに聞けばわかるかと思ったんだけど、今、倫理検査中で」
「代理エージェントでは——」
「代理は関係性がないから、鍵の記憶なんて持ってないのよね」
そうだ。代理にはデータはあっても、手触りがない。
私は鍵束を一本ずつ見た。どれも古い。物理鍵がまだ主流だった頃のものだ。
「——正直に言うとね」女性は窓の外の銀杏並木を見ながら言った。「通知なんて来てないの。この案内所の前を通りかかっただけ。誰かと話したかったの」
赤い点。あれは本物の異常だった。でも、彼女をここに導いたのは通知ではなかった。
『嘘をつくのが下手な人ね。好きよ、こういう人』
祖母の声に少しだけ笑って、私はレジ横の棚からお茶のペットボトルを取った。省人化レジが静かに光る。百二十円。
「よかったら」
女性は鍵束を握ったまま、小さく頭を下げた。
フロッピーディスクが、朝の光を受けて鈍く光っていた。読み込む機械はない。でも捨てたこともない。たぶん、そういうものなのだと思う。