半券だけが知っている避難経路

──平成0x29A年03月24日 09:00

 朝九時のサイレンが鳴った。訓練用の、間延びした音。

 わたしはナノ医療パッチの在庫を数える手を止めて、窓の外を見た。旧横浜エリア第三防災倉庫の二階。曇り空の下、近隣の住民がぽつぽつと広場に集まり始めている。

「四十二枚。足りないわね」

 母さんの声が耳の奥で言った。正確には、三年前に亡くなった母の人格エージェント。在庫のカウントを並行して走らせていたらしい。

「足りないって、パッチが?」

「参加者名簿が八十七名でしょう。訓練でも一人一枚配布って通達が来てたはずよ」

 通達。バーチャル役所から届いたやつだ。わたしは腰のポーチからガラケーを取り出し、パカッと開いた。小さな液晶に、バーチャル役所のポータル画面がぎゅっと圧縮されて映る。スクロールが遅い。iモード風のメニューを三階層たどって、ようやく該当通達を見つけた。

「——配布対象は訓練参加者全員。ナノ医療パッチ(訓練仕様・無効化済)を一枚ずつ手渡しし、受領の記録を紙面にて保管すること」

 紙面にて。

 わたしは二度読んだ。バーチャル役所の通達なのに、記録媒体が紙。最近こういうのが増えている。署名アルゴリズムの信頼性が落ちてから、「物理的な記録を並行保管せよ」という政策変更リクエストがいくつも承認されたと聞いた。誰かが五分間の閣議で判を押したのだろう。

「あんたが去年やったときは電子台帳だけでよかったのにね」と母さんが言う。

「去年は去年」

 わたしは段ボールからパッチの箱を出しながら、もうひとつの箱に目をやった。受付用チケットの束。ミシン目入りの二枚綴りで、切り離すと半券が手元に残る。映画館みたいだ、と思った。昔の映画館。母さんが連れて行ってくれた、旧関内のシネコン。

 半券の裏には氏名と住所を書く欄がある。油性ペンで。

「懐かしいわね、こういうの」

 母さんの声が少し柔らかくなった。享年五十一。元看護師。災害医療の現場にいた人だ。ナノ医療パッチなんて存在しない時代に、本物のガーゼと本物の手で人を繋ぎ止めていた人。

 階段を降りると、広場にはもう列ができていた。わたしはパイプ椅子に座り、チケットを一枚ずつちぎっては住民に半券を渡し、手元に控えを残した。名前を書いてもらう。ボールペンを貸す。返してもらう。パッチを一枚渡す。「腕の内側に貼ってください、訓練用なので薬効はありません」。

 繰り返し。

 四十人目くらいで、ボールペンのインクが切れた。

「あら」と母さん。

 わたしはポーチを探った。予備はない。隣のテントの担当者に声をかけようとしたら、列に並んでいた老人が胸ポケットから万年筆を差し出した。

「使いな」

 キャップを外すと、青いインクが滲んだ。半券の紙質には少し濃すぎる。でも書ける。

 列が終わったのは十時過ぎだった。手元には八十七枚の半券の束。油性ペン、ボールペン、万年筆。三種類の筆跡ならぬ三種類のインクが混在していて、統一感はまるでない。

 バーチャル役所にスキャンして送ればいいのか、それとも原本を保管するのか。通達をもう一度開こうとガラケーを取り出したら、母さんが先に答えた。

「両方よ。スキャンして、原本も残す。二重にしなさいって書いてある」

「……非効率だね」

「非効率が目的なのよ、たぶん」

 わたしは半券の束を輪ゴムで留めた。紙の角がわたしの指に当たって、ほんの少しだけ痛かった。

 アルゴリズムは解読される。電子署名は偽造される。でもこの八十七枚の半券を、八十七人ぶんの筆圧ごと偽造するのは、きっと面倒くさい。

 それだけのことだ、と思った。

 それだけのことが、今は少し、頼もしい。