ノイズの向こう、姉の声
──平成0x29A年03月09日 10:50
バックヤードは、忘れられた時代の匂いで満ちていた。プラスチックが劣化した甘い匂い、磁気テープの酸化鉄が放つ微かな金属臭、そして古い紙の乾いた香り。僕、柏木聡の仕事場は、この「地域記憶アーカイブ室」の心臓部であり、墓場でもあった。
目の前の棚には、プラスチックケースに収まったカセットテープが壁のように積まれている。今日の仕事は、その中の一本、『ID: B-774 / 故・サトウハル氏』の記憶補助データをシステムに同期させること。
「聡、始める?」
網膜に直接投影されるテキストで、姉の美咲が話しかけてくる。僕は頷き、古めかしいデッキにテープを滑り込ませた。ガチャン、と重い手応え。再生ボタンを押すと、スピーカーから「サー」というヒスノイズが流れ出す。
『……読み取りエラー。フォーマット不整合。エージェントの記憶補助モジュールを確認してください』
システムからの非情な通知。姉が困ったような絵文字をテキストの横に添える。
「ごめん。私のモジュール、まだ更新が承認されてないみたい。この時代の圧縮方式、うまく解釈できない」
「またか……」
僕はため息をつき、ARグラスに申請状況を呼び出す。そこには、三週間前から変わらないステータスが表示されていた。
『申請:承認待機中 / 担当:第0x3C89A内閣ユニット / 理由:党ドクトリン署名との整合性評価待ち』
壁のスピーカーから、抑揚のない合成音声アナウンスが流れる。
「……第0x5E11F内閣ユニットより通達。第7居住ブロックにおける公園遊具の安全基準に関する政策変更リクエストが、署名不整合により非承認と……」
日常のBGMだ。僕らは、常に誰かが5分間だけ務める無数の内閣によって統治されている。そして、その決定は、もう誰も正体を知らない「党」のアルゴリズムに縛られている。姉の更新が滞っているのも、そのせいだ。
「手動でやってみるよ」
僕はヘッドホンをつけ、ノイズの海に意識を沈めた。ARグラスには、音声波形が緑色の線で表示される。姉が、その波形の一部をハイライトした。
「ここ。たぶん、お孫さんに歌をうたってる声。でも、記録時のモーターの回転ムラでピッチが揺れてる」
僕は姉の指示に従い、指先で波形をなぞって補正していく。ヒスノイズの向こうから、掠れた老婆の歌声が、少しずつ形を取り戻してくる。
ピッ、ピッ、と警告音が鳴った。携帯端末のバッテリー残量警告だ。僕は席を立ち、バックヤードの隅にある充電ステーションに向かう。使い古されたニッケル水素電池(NiMH)を数本、充電器に差し込んだ。どうして未だにこんなものが現役なのか、時々不思議になる。
小一時間ほど格闘して、なんとかデータの修復を終えた。ノイズまみれだった音声は、温かみのある子守唄として蘇った。
「……よし、これで同期できるはず」
安堵のため息をつき、バックヤードから出ようとスマートドアに近づく。だが、ドアは沈黙したままだった。
『認証エラー。エージェントの記憶補助モジュールとの同期が不完全です。退室を許可できません』
「嘘だろ……」
「私のせいだ……。ごめん、聡」
姉のテキストが、心なしか震えているように見えた。システムの不備が、僕らを物理的に閉じ込める。これが、僕らの世界の歪みそのものだった。
立ち尽くす僕の頭に、ふと、馬鹿げた考えが浮かんだ。
「姉さん、さっきの歌、ドアの認証システムに直接流せる?」
「え?……たぶん、できるけど……」
僕は頷き、修復したばかりの音声データを、ドアの認証ポートにストリーミングした。
ノイズ混じりの、素朴な子守唄。システムが解析すべき識別情報でも、暗号化されたパスキーでもない。ただの、おばあちゃんの歌声。
一瞬の沈黙。
ドアの認証ランプが、赤と青の間で不規則に点滅した。システムが、予期せぬデータに混乱しているのが分かった。
もう一度、アナウンスが響く。
「……第0x2A90C内閣ユニットより通達。公共インフラの維持管理予算に関する……」
その無機質な声を遮るように、静かな電子音が鳴った。
『……パターンを解析不能。ただし、高レベルの非敵対的・肯定的情動パターンを検出。例外的に承認します』
プシュー、と軽い音を立てて、スマートドアが横にスライドした。ドアの向こうから、明るい廊下の光が差し込んでくる。
僕は、その光の中に一歩踏み出した。
「ねえ、聡」
姉の声が、テキストではなく、確かに聞こえた気がした。
「システムが、すべてじゃないみたいね」
その声は、ノイズの向こうから届いた、確かな温もりを持っていた。