同期エラー0.7秒の彼方

──平成0x29A年10月11日 07:50

「翔太、おはよう。今日は晴れ。第0x3A98C内閣ユニットから、生体電位の定期レポート提出要請が来てる。期限は18時」

天井に埋め込まれたスピーカーから、合成音声が滑らかに告げる。僕は「了解」とだけ返し、シリアルを口に放り込んだ。スマート家電が管理する僕の生活は、いつもどおり完璧だ。

マンションの駐輪場は自動ゲート式だが、出口で警備員から渡されるのは、なぜかボール紙に印刷された貧弱な紙札だった。指で弾くと乾いた音がする。そのちぐはぐさに慣れてもう何年も経つ。

僕の職場は、第3知能工学ブロックにあるエージェント人格同期研究所。法定倫理検査を終えたエージェントのパーソナリティ・データを、本人格の最新バックアップと再同期させ、社会復帰させるのが仕事だ。

そして今日、僕が担当する症例番号『AG-771B』は、三年前にバイク事故で死んだ、僕の兄さんだった。

「悠馬、聞こえるか? これから再同期を開始する」

コンソールのマイクに話しかける。目の前のスクリーンには、兄さんの基本データと、検査機関からの評価レポートが表示されている。〈評価:A。ドクトリンへの親和性、極めて良好〉。当たり障りのない文面だ。

エンターキーを押すと、色とりどりのデータストリームが走り出す。生前の記憶、死後の活動ログ、法定倫理検査で受けたストレス負荷の記録。それらが混ざり合い、一つの人格として再構成されていく。本来なら、数分で終わるはずの作業だった。

しかし、プログレスバーが99%で停止した。赤いアラートが点滅する。

〈同期エラー:パーソナリティ・ベクトルの非整合性。逸脱値0.783〉

「……なんだよ、これ」

舌打ちしながら、僕はデバッグモードを起動した。エラー箇所を特定する。原因は、兄さんの嗜好データにあった。特に音楽。兄さんは生前、古いロックバンドばかり聴いていた。ウォークマンにカセットテープを詰めて、いつも大音量で鳴らしていた姿を思い出す。

だが、倫理検査後のデータでは、最近の電子音楽に対する好感度が、有意なレベルで上昇していた。それは僕が作業中によく聴いているジャンルだ。

「まさか……」

ログを深く掘る。兄さんのエージェントは、僕と会話する中で、僕が聴く音楽を学習し、自らの嗜好を「更新」していたらしい。死んだ人間の人格は、固定された標本のはずだ。変化は、バグでしかない。システムは、この0.7秒にも満たない思考のズレを「エラー」と判断したのだ。

修正は簡単だ。生前の最終バックアップデータで、嗜好領域を上書きすればいい。そのための差分変更リクエストを、内閣ユニットの承認システムに送るだけ。

僕は申請フォームを開き、修正内容を打ち込んだ。あとは、ドクトリンに基づく暗号署名を添付して送信すれば、どこかの誰かが「承認」か「非承認」のボタンを押す。それで、兄さんは「正しい兄さん」に戻る。

指が、送信ボタンの上で止まった。

もし、このエラーが、兄さんがまだ「生きている」証だとしたら?
死という絶対的な終点から、ほんの少しだけ、未来に向かって歩き出しているのだとしたら?

それは、僕と一緒に過ごした時間の中で生まれた、新しい個性のかけらじゃないのか。

僕は、耳につけていた自動翻訳イヤホンを外した。海外カンファレンスの騒がしい音声が途切れ、研究所に静寂が戻る。代わりに、自分の端末で音楽を検索した。

兄さんが昔、ウォークマンで聴いていた、あの古いロックバンドの曲。

ストリーミングで流れ出した懐かしいギターの音に耳を澄ませながら、僕は開いていた申請フォームを、「承認」でも「非承認」でもなく、「保留」のステータスでそっと保存した。

この小さなバグを、もう少しだけ、僕と兄さんだけの秘密にしておきたかった。