センサーダストの沈む夜に、連絡網は回らない
──平成0x29A年03月13日 02:40
深夜二時四十分、研究棟の蛍光灯がひとつ切れかけていて、ちかちかと瞬く光が天井のセンサーダストを照らしていた。
塵のように細かい粒子が、気流に乗って揺れている。あれが室温も湿度も振動も全部拾って、壁のモニタに数値を送っている。私の心拍数まで。余計なお世話だ。
「奈津、また眠れないの」
イヤーピースから祖父の声がした。穏やかで、少しだけ鼻にかかった、あの声。
「眠れないんじゃなくて、起きてるの。違うでしょ」
「はいはい。で、進んだ?」
進んでいない。
私は旧つくばエリアの応用情報研究所で、内閣ユニットの短時間職務——いわゆる五分間総理——の認知負荷を計測する研究をしている。被験者に模擬閣議を体験させて、その間のセンサーダストが拾う生体データを分析する。ただそれだけのことなのに、今日は被験者が来なかった。
連絡網が回っていなかったらしい。
研究所の連絡網は未だに電話のリレー方式で、名簿の紙がラミネートされて給湯室の壁に貼ってある。一番上の山岸さんが風邪で寝込んで、そこで途切れた。いつものことだ。メールでもメッセージでも代替手段はいくらでもあるのに、所長が「これが正式な手順だから」と言って変えない。平成の学校みたいだねと祖父が笑う。平成の学校がどんなだったか、私は知らない。祖父も知らないはずだ。
「被験者、明日に回せないの」
「明日は機材の倫理検査が入ってる」
リモート診療端末を転用した生体計測機が、研究室の隅に三台並んでいる。本来は遠隔で患者を診るための端末だが、こちらでは被験者の瞳孔反応と皮膚電位を拾うのに使っている。画面にはまだ「問診を開始しますか?」という文字が残っていて、その横に前の被験者が貼ったプリクラのシールが光っていた。
プリクラ。あの筐体は研究棟の一階ロビーに一台ある。誰が置いたのかわからない。所員も学生も、被験者の市民も、実験の前後に撮っていく。計測機の横に貼られたシールの中で、先週の被験者——五十代の配管工の男性——がぎこちなくピースしている。彼は五分間総理の模擬閣議で、最初の三十秒で政策リクエストの意味がわからないと言い、残りの四分半をエージェントに丸投げした。認知負荷のグラフは最初に跳ね上がり、あとは平坦だった。
それが、典型的なパターンだ。
五分は短すぎる。誰もが最初の数十秒で混乱し、あとは諦める。エージェントが代わりに署名案を出し、本人はそれを承認するだけ。閣議決定に必要な党ドクトリンの暗号署名だって、今やアルゴリズムが半ば解かれているから、エージェント側で自動的に通してしまう。
人間がいる意味は、あるんだろうか。
「意味はあるよ」と祖父が言った。心拍を読んだのか、それとも私の思考パターンを三十年分学習しているのか。
「じいちゃん、データ見てる?」
「見てない。顔を見てる」
センサーダストは私の顔の微表情も拾っている。祖父のエージェントはそれを参照できる。生前、町医者だった祖父は、患者の顔色を見るのが得意だった。
「配管工の人のプリクラ、見て」と私は端末の横を指さした。「この人、実験後に自分から撮りたいって言ったの。五分間だけ総理大臣だったことを、記念にしたいって」
祖父は黙った。
「意味がないって本人もわかってるのに、記念にはしたいんだよ。それってなんなんだろう」
蛍光灯がまた瞬いた。センサーダストがきらきら舞った。
「奈津」
「なに」
「その問い、論文に書きなさい」
私は笑って、リモート診療端末の電源を落とした。画面が暗くなると、プリクラのシールだけが蛍光灯の明滅を反射して、ぴかぴかと光っていた。配管工の男が、小さなフレームの中で、まだピースしていた。
指先でそのシールの縁に触れた。少しだけ、剥がれかけていた。