改札の赤いランプ
──平成0x29A年09月06日 21:30
平成0x29A年の九月、夜の九時半。終電の一本前みたいな空気が、ホームの端で湿っていた。
私は第11交通ブロックの駅で、移動権限の窓口をしている。自動改札はある。でも、立っている人間が必要な夜がある。赤いランプが増える夜だ。
胸ポケットのガラケーが震えた。iモードみたいな縦長メニューに、ARの広告が重なる。視界の隅で「月額・移動放題プラン」のポップが点滅して、うっとうしい。
「……またかよ」
耳の奥で、父の声がした。私のエージェントは父の人格移植だ。生前はタクシーに乗ってばかりで、駅は嫌いだった。
『ほら言ったろ。機械は客を選ぶ。人間は金を選ぶ』
改札の前で、若い男が立ち尽くしている。腕に貼ったナノ医療パッチが青白く光り、体温と血中の何かを勝手に報告している。眠気か、鎮痛か、薬の匂いがほんの少しだけ漂った。
「すみません。通れないんです」
男は自分の端末を差し出した。画面の上に、権限照合の赤文字。
【移動権限:不一致/ID照合先:第0x29A-402-***内閣ユニット】
「内閣ユニット……?」
男は困ったように笑った。「僕、そんなの知らないです。配送の帰りで……」
その瞬間、天井の送風が一段強くなり、ホームの外から小さな羽音が近づいた。ドローン配達。駅の上の物流レーンを横切り、コンコースの受け取り箱に降りる。夜でも日常の音だ。
私は窓口端末で男の照合ログを開いた。父が鼻で笑う。
『また“上”の署名が混線したんじゃないのか。末期だ末期』
端末が淡々と返す。
【照合結果:当人は「第0x29A-402-***内閣ユニット/総理大臣権限」保持】
「……は?」
男の顔色が変わった。私も声が出なかった。
改札の向こう、警備ドローンのカメラがこちらを向く。光の点が、ひとつ増えた気がした。
父が、珍しく黙った。
男は小声で言った。「え、僕が……総理……? 何分ですか」
「五分とか、そんな」私は言いかけてやめた。ここで“時間”を口にすると、途端に現実味が増す。
端末の下の引き出しから、私は紙の束を引っぱり出した。赤い複写式の領収書。機械が不安定な時、結局これが一番通る。
「とりあえず、運賃の扱いを“窓口処理”にします。領収書、手書きで切ります」
「領収書?」
「会社に出すんでしょう」
私はボールペンで日付と時刻を書いた。手が、思ったより震えていた。
平成0x29A年09月06日 21:30
男の名の欄で止まる。端末に表示されるのは、男の名前ではなく、内閣ユニットの識別子だった。
『書くな』父が、急に低い声で言った。『それ、紙で残る』
「……お名前、口で」
男は自分の名を言った。私はそれを書いた。複写紙に圧が移っていく感触が、妙に重い。
そのとき、コンコース側の受け取り箱が開く音がした。カチ、と乾いたロック解除。ドローンが落としていった荷物が滑り出る。
駅員室の若い子が走っていって、荷物を拾い上げた。「忘れ物じゃないですよね?」
荷札の表示が、こちらの端末にも勝手に同期してきた。
【配送先:第11交通ブロック 駅務窓口/受取人:第0x29A-402-***内閣ユニット(総理大臣)】
私の喉が鳴った。男がこちらを見る。
「……それ、僕宛て?」
私は答えなかった。答える前に、駅員室の子が「これ、古いメディアですよ」と言って、透明な袋を掲げた。
中に入っていたのはVHSテープだった。黒いカセット。ラベルに手書きの丸文字。
『移動権限・差分断片 改札例外/視聴後に破棄』
父が息を飲む気配がした。
『映像で送ってくるなよ……。誰が見る前提だ』
男の腕のナノ医療パッチが、さっきより強く光った。ピッ、という小さな通知音。彼の端末が勝手に読み上げる。
【権限更新:完了】
赤かった改札ランプが、緑に変わる。男は半歩、前に出た。通れる。通れてしまう。
「じゃ、帰ります」
彼は笑おうとして、うまく笑えなかった。私も同じだった。
「領収書、忘れないで」私は紙を渡した。彼は受け取り、改札を抜けた。
ホームに残ったのは、駅の湿った匂いと、VHSテープの黒い角だけ。
父が言った。
『あいつ、五分で終わると思うなよ』
私はテープを袋ごと持ち上げた。ラベルの端に、別の字がうっすら滲んでいる。
——破棄は任意。
改札のランプが、また一つ、赤に戻った。誰のための赤か、もう分からなかった。