緑のLEDが点滅するとき、誰かの声が遠のく

──平成0x29A年09月26日 07:30

俺が第0x4A2F1内閣ユニットの内閣総理大臣に就任したのは、朝のコーヒーを淹れている最中だった。

ガラケーが震えて、画面に「任期開始 07:31:42 残り4分58秒」と表示される。第18通信ブロック光ファイバー保守係の俺には、こういう権限が回ってくるのは年に一、二度だ。

「淳、落ち着いて。まず閣議リクエストを確認しなさい」

兄貴の声が耳の奥で響く。享年42、過労死。生前は通信設備の設計技師だった。俺のエージェントになってからも、相変わらず手順を大事にする。

スマートグラスに三件のリクエストが並ぶ。一件目は「公衆電話ボックス内Wi-Fiルーター設置義務化」。党ドクトリンの署名アルゴリズムを参照すると、緑のチェックマークが点灯する。承認でいい。

二件目、「光ファイバー帯域制限緩和(平成28年基準→令和2年基準)」。これも署名は通る。だが俺は首を振った。

「兄貴、これ承認したら現場が死ぬ」

「わかってる。でも党ドクトリンは承認を推奨してるぞ」

「推奨であって強制じゃない。非承認」

指先でスワイプ。リクエストが赤く染まる。現場の光ケーブルは平成28年基準でギリギリ保ってる。令和基準なんかにしたら、ノード全体を交換しなきゃならない。予算も人手もない。

残り2分13秒。三件目のリクエストが開く。

「カーボンクレジット台帳の通信インフラ負荷軽減——生成AI校正による自動圧縮導入」

文面を読んだ瞬間、胸がざわついた。カーボンクレジット台帳は、全ブロックの電力・通信・水道の使用量を記録する巨大なデータベースだ。その更新トラフィックが光ファイバーを圧迫してるのは事実だが、これを生成AIで「校正」するってのは——。

「淳、これは承認していい。署名も完璧だ」

兄貴の声が冷静すぎる。いつもならもっと慎重なのに。

「待てよ。校正って、要はデータを削るってことだろ?」

「誤差範囲内の重複や冗長性を排除するだけだ。問題ない」

俺はガラケーを握りしめた。画面の隅に、昨日回収したファミコンカセットの写真が映り込んでいる。リサイクル申請で持ち込まれた「スーパーマリオブラザーズ」。基板の隙間に、誰かが手書きで「1991.12.24 サンタより」と書き込んでいた。

データの冗長性。誤差範囲。そういう言葉で切り捨てられるものの中に、誰かの記憶が埋まってる。

「非承認」

兄貴の声が途切れた。一瞬の沈黙。

「……淳、お前、倫理検査が近いだろう。俺が停止したら、代理エージェントが来る。そいつはこういう判断、絶対しないぞ」

「知ってる」

ガラケーが震える。「任期終了 07:36:40」。

閣議リクエストの画面が消え、通常モードに戻る。スマートグラスの隅に「次回倫理検査まで12日」の通知が点滅していた。

兄貴の声が、少しだけ柔らかくなる。

「……お前らしいよ」

「だろ?」

コーヒーはすっかり冷めていた。ガラケーを閉じて、ポケットに押し込む。緑のLEDが一度だけ点滅して、消えた。

窓の外では、光ファイバーの保守車両が走り去っていく。平成28年基準のケーブルを、今日も俺たちは守り続ける。