ブラウン管の温度、充電池の記憶

──平成0x29A年01月05日 15:20

俺が所属する第9研究開発ブロックの「生活技術再現ラボ」は、平成エミュレーションの精度を上げるための実験施設だ。今日も午後三時過ぎ、俺は14インチのブラウン管テレビの前に座り込んでいた。

「坂本さん、そのテレビ、また映らないんですか」

後輩の女性研究員が声をかけてくる。俺は首を横に振った。

「いや、映るんだ。ただ、色温度が合わない。デジタルツインで再現した平成の居間と、実物のブラウン管の発色が微妙に違う」

俺の手元には、NiMH充電池が転がっている。単三型、容量2000mAh。これもまた平成エミュの一部だ。当時はこの電池を何度も充電して使い回していたらしい。今は誰も電池なんて買わない。すべての機器がワイヤレス給電で動く。

でも、俺たちのラボでは違う。

「坂本、また手作業か」

背後から声がした。エージェントの声だ。俺の兄貴、坂本健二。享年39、実験室での化学物質暴露が原因だった。生前は同じ研究員で、いつも俺の仕事に口を出してきた。今もそれは変わらない。

「手作業じゃないと分からないことがあるんだよ」

俺はブラウン管の裏蓋を開け、内部の調整ネジを少しずつ回す。こんな作業、今のスマート家電には存在しない。冷蔵庫も洗濯機も、すべて自己診断して勝手に最適化する。でも、ブラウン管は違う。人の手が必要だ。

「デジタルツインのデータ、また更新しないとな」

兄貴が言う。その通りだ。俺たちのラボには、平成時代の典型的な居間を完全再現したデジタルツインがある。仮想空間に構築された6畳間。そこにブラウン管テレビ、コタツ、MDコンポ、ガラケーの充電器。すべてが混在している。

問題は、デジタルツインと実物の乖離だ。

俺は充電池をテスターにかける。電圧1.2V、問題ない。でも、この電池を使ったリモコンの反応速度が、デジタルツイン上のシミュレーションと0.3秒ずれている。

「なんでだ」

つぶやくと、兄貴が答える。

「お前が忘れてるんだよ。充電池は使い込むと内部抵抗が上がる。新品と劣化品じゃ、電流の立ち上がりが違う」

ああ、そうか。

俺はデジタルツインのパラメータを開き、電池の劣化モデルを追加する。すると、シミュレーション上のリモコン反応速度が実測値に近づいた。

「やっぱり、アナログ手続きが必要なんだな」

俺はそう呟いた。党ドクトリンのアルゴリズムは、すべてをデジタル化しろと言う。効率化、最適化、自動化。でも、平成エミュレーションの精度を上げるには、実物に触れて、手で調整して、ズレを記録する必要がある。

「坂本さん、明日の報告書、手書きでいいんですか?」

後輩が尋ねる。俺は頷いた。

「ああ。ブロック長が『アナログ記録も残せ』って言ってた。デジタルツインだけじゃ、温度が伝わらないってさ」

ブラウン管の表面に手を当てる。ほんのり温かい。この温度を、デジタルツインは再現できない。

兄貴が笑った。

「お前、昔から手触りにこだわるよな」

俺は答えなかった。ただ、充電池を手のひらで転がした。少しだけ重い。この重さも、記録しておかなきゃいけない。