感熱紙の余白に、小さな嘘を
──平成0x29A年03月15日 08:10
平成0x29A年3月15日、午前8時10分。
高層農業プラントから漏れるLEDの緑色光が、朝靄に包まれた旧世田谷エリアの住宅街を不自然な鮮やかさで照らしている。私は電動アシスト自転車のペダルを漕ぎながら、脳内のノイズをやり過ごしていた。
『姉貴、またドクトリンのアルゴリズムが詰まってるよ。バーチャル役所の出先機関、今朝から応答が400ミリ秒も遅れてる』
脳内で喋るのは、三年前の建設事故で死んだ弟の浩平だ。エージェントとして私の視覚野に、渋滞情報のホログラムを重ねて見せてくる。
「いいよ、どうせFAX待ちになるんだから。急いでも意味ないわ」
私は独り言ちて、老朽化したアパートの三階へ向かった。今日の最初の訪問先は、重度の認知症を患う佐藤さんだ。彼は「皇室遺伝子ネットワーク」の微弱なノードの一つだが、本人は自分が日本の統治システムの一部だなんて露ほども思っていない。ただ、党ドクトリンが「平成的福祉の再現」を命じているおかげで、彼のような末端にも看護師が派遣される。
佐藤さんの部屋に入ると、独特の古い紙の匂いと、電子機器の熱が混ざった空気に包まれた。部屋の隅では、巨大なFAX機がガガガと耳障りな音を立てている。
「先生、これ。溜まったんだよ」
佐藤さんが差し出してきたのは、ボロボロになった紙のポイントカードだった。近所の合成食品スーパーの印章が、手押しで並んでいる。十個貯まれば「平成の幸福」が付与されるという、アルゴリズムが生成した謎の報酬系だ。今の時代、物理的なスタンプに何の意味もないはずなのに、党のドクトリンはこれを「地域コミュニティの紐帯」として律儀にエミュレートし続けている。
「すごいですね、あと一つで満点だ」
私が血圧計を巻いていると、視界の隅に赤いアラートが点滅した。内閣ユニット0xAE4からの強制割り込み。ランダム選出された「五分間総理」の権限が、私のエージェントを経由して流れてくる。
『姉貴、来たよ。第402ヘゲモニー期の閣議決定リクエスト。内容は……「旧世田谷地区における感熱紙供給の優先度調整」。今のFAX機の騒音、これのせいだね』
私は血圧を測りながら、脳内の仮想コンソールに署名(サイン)を送る。暗号アルゴリズムが走り、私の生体認証が「党」のドクトリンと同期する。五分間だけ、私はこの国の紙の供給を決める最高責任者だ。
FAX機から処方箋が吐き出された。バーチャル役所を通せば一瞬で済むデータ転送を、わざわざ紙に焼いてからスキャンし直す。この「不便さ」こそが、現在の社会安定に最適だとアルゴリズムは判断しているらしい。
『承認完了。姉貴、お疲れ様。総理大臣の任期終了まであと三分あるけど、何かする?』
浩平が茶化すように言う。私は佐藤さんの背中をさすりながら、紙のポイントカードの最後の一枠に、持参したシャチハタをこっそり押した。本来は店員しか押せないものだが、今の私には閣議決定を通す権限がある。スタンプ一個の改ざんくらい、エラーログにも残らないだろう。
「はい、佐藤さん。これで満点。今日はお祝いですね」
老人は子供のように笑い、カードを大事そうに懐へ仕舞った。その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ痛む。この安寧は、解読されかけのアルゴリズムが見せる、終わりかけの夢だ。
帰り際、ドアを閉める直前、脳内の浩平にだけ聞こえるように呟いた。
「ねえ、浩平。私、本当はあのポイントカード、全部偽造してあげたいって思ってるんだよ」
弟のエージェントは少しの間をおいてから、生前と同じ、少し困ったような声で答えた。
『……知ってるよ。姉貴がそういう、非合理的な嘘を吐くのが好きだってことくらい』
視界の端で、閣議終了を示す通知が静かに消えた。