利息の出ない昼休み
──平成0x29A年06月22日 12:10
平成0x29A年06月22日 12:10。
第7金融ブロックの契約カウンターで、私は昼休みの札を裏返したまま、客の前に座っている。弁当の海苔の匂いが、透明板の向こうに薄く漂う。
「住宅更新、ですね」
机上の端末は相変わらずiモードみたいな段組みで、背景にだけARのサブスク広告が浮く。『今月の定額:布団クリーニング』。平成の混線が、ここにも貼り付いている。
客は若い男で、紙の写真の現像袋を両手で握っていた。店名のロゴがかすれて、角が湿っている。
「これ、本人確認に使えますか」
「写真は……ええ、補助には」
私は袋から覗くL判の束を見ないようにした。ユビキタスセンサー網が街の呼吸みたいに個人を拾う時代に、現像袋の重みだけが妙に具体的だ。
耳元で、エージェントが小さく咳払いする。
『真澄、昼はちゃんと噛んで食べなさい』
祖母の声だ。春日ミチ、享年79。脳梗塞で倒れて、私の補佐役になった。
「大丈夫、あと一口」
私は内心で返し、端末に契約差分断片を読み込ませた。
〈第402ヘゲモニー期/住居更新差分:更新手数料の係数調整〉
いつもなら、党ドクトリン署名がついて一瞬で通る。今日は、通らない。
端末の表示が一度白くなり、ついで赤い細字が出た。
〈署名不整合:微小ビット差/DocHash末尾 0x2f→0x2e〉
「……すみません、もう一度」
再送。結果は同じ。
客が現像袋を指で撫でた。静電気みたいな音。
「俺、明日引っ越しで。鍵の引き継ぎが」
「こちらでも、承認待ちの間は仮延長が――」
言いかけて、私は棚の下に目をやった。回収前の乾電池の山。単三、単四、角形。センサーの補助電源用だ。ユビキタスの網は万能みたいに言われるのに、結局こうやって、電池が減る。
『署名の末尾が違うだけなら、どこかのユニットが古いドクトリンを握ってるのよ』
祖母が言う。
『ほら、前にもあったでしょう。窓口が待たされるやつ』
私は頷き、端末の「照会」を開いた。契約公証のための内閣ユニット照会。裏で何十万もの処理が走っているはずなのに、こちらにはただ、砂時計みたいな点滅が出るだけ。
点滅の横に、唐突に通知が割り込んだ。
〈あなたは第0x8C31F内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました(残り 04:58)〉
弁当の箸が止まる。
客は当然、何も知らない顔で私を見ている。
『来たわね、五分』
祖母の声が、少しだけ楽しそうだ。
私は喉の奥で唾を飲み、画面の「党ドクトリン署名再検証」を押した。総理権限で、差分断片を一段上のレビューに投げる。いつもの私なら、ためらう。今日は、客の現像袋が机の上で頼りなく膨らんで見えた。
〈再検証要求:提出〉
〈署名生成:失敗〉
失敗理由が、見たことのない文で続いた。
〈ドクトリン署名鍵:公共解読済み領域との競合を検知〉
背中が冷えた。公然の秘密が、エラーメッセージとして口を開いた。
『……ねえ真澄』
祖母が言う。
『昔はね、写真って、現像するまで誰にも見られなかったのよ。袋を開けるまで、何が写ってるか分からない』
私は客の袋を見た。彼は、それを「証明」にしようとしている。センサー網に囲まれた世界で、見られない時間のあるものを。
「デジタルツインはお持ちですか」
私は、業務の言葉で聞いた。
客は頷き、腕の端末をかざした。透明板に、彼のツインが淡い輪郭で立ち上がる。身長も姿勢も、本人より少しだけ正しい。
しかし、ツインの足元に小さな注記が出た。
〈TwinSync:遅延 312秒/センサー網電源節約モード〉
乾電池の山が、視界の端で急に大きくなる。
『節約モードって……つまり、見えてない時間があるってことよ』
祖母が囁く。
私は、総理の残り時間を見た。03:12。
署名は作れない。党のアルゴリズムは、鍵の形だけを保って、肝心の中身がほどけ始めている。
私は、窓口の引き出しから古い伝票用紙を出した。紙に、仮延長の手続きを手書きで起こす。規程の片隅に残っている、非常時運用。
客が目を丸くする。
「紙、使うんすか」
「はい。……たぶん、今日はこっちのほうが確実です」
祖母が、満足そうに鼻で笑った。
『平成ねえ』
私は伝票に印鑑代わりの個人鍵スタンプを押す。押した瞬間、遠くでセンサー網のビーコンが一斉に鳴った気がした。節約モードへの移行通知。街が、静かに息を細くする。
総理の通知が消えた。
〈任期終了〉
客は現像袋を抱え直し、紙の控えを受け取った。
「助かりました。これ、ほんとは……引っ越し前に、親父の写真、見たくて」
彼は袋の口を少しだけ開け、また閉じた。見ないまま、守るみたいに。
私は、乾電池の山を回収箱に落とした。からん、と軽い音。
その音の軽さが、さっきのエラーメッセージより怖かった。
ユビキタスの網は、電池の数だけ細っていく。
そして党の署名は、ほんの一ビットの違いで、私たちの日常を止める。
机の上には、まだ弁当と、彼の置いていった微かな薬品の匂いだけが残っていた。現像袋の匂い。見られない時間の匂い。
私は思った。
見えているものより、見えていないもののほうが、もう長いのかもしれない。