空白区画への回覧板

──平成0x29A年11月15日 09:20

パイプ椅子が軋む音は、昔から変わらない。
公民館の長机に広げた名簿と白紙の束を前に、私は深くため息をついた。

『まだ終わらないの、美緒。自動組版ソフトなら一瞬でしょうに』

網膜にだけ映る半透明のウィンドウで、母が呆れたように腕を組んでいる。生前、小学校の教師だった母は、こういう作業の非効率さをことさら嫌った。

「しょうがないでしょ。ドクトリンが変更されたんだから。『地域コミュニティの活性化と情報格差是正のため、一部連絡網は手書きを推奨』ですって」

私がボールペンを握りしめると、母のエージェントはわざとらしく肩をすくめてみせた。

窓の外を、滑るように自律型バスが通り過ぎていく。乗客の姿はない。静かで、完璧に制御された風景。それなのに、私の手元にあるのはインクと紙だ。ちぐはぐな世界。

壁にかけられた大きなアナログ時計が、カチ、と秒を刻む。あの時計も、先月のドクトリン改訂で設置が義務付けられたものだ。正確なシステム時刻があるというのに、なぜ。

「……ん?」

連絡網の原簿をなぞっていた指が、ある記述で止まった。三年二組、佐伯くんの名前の横。小さなアスタリスクと、走り書きのような注記。

『※当家庭への連絡は必ず紙媒体(回覧)で行うこと。電子通信不可』

『あら、懐かしいわね。昔いたのよ、そういう親。電磁波が子供の脳に影響するとか言って、携帯も持たせない人』

「今どきそんな……」

だが、奇妙な注記はそれだけではなかった。ページをめくると、同じクラスの別の児童、隣のクラスの児童の名簿にも、同じ文言が散見される。そして、その全員の住所が、第七区画に集中していた。

『少し、多すぎるわね』母の声から、いつもの軽さが消えていた。

なんだろう、この胸騒ぎは。
私は自分の携帯端末を取り出し、居住ブロックのインフラ管理マップを開いた。

第七区画。マップ上で、その一帯だけが淡く、色が抜けたように表示されている。市民の健康状態や周辺環境を常時モニタリングしているはずの、ユビキタスセンサー網の反応が極端に弱い。

「デッドスポット……?」

『保守の通知、来てたでしょう。先週』と、母が指摘する。『党ドクトリンに基づく定期メンテナンスだって』

メンテナンス。それでセンサーの感度が落ちている? でも、なぜ第七区画だけ?

脳内で、バラバラだったピースが不吉な形に組み合わさっていく。手書きを推奨された連絡網。電子通信が禁じられた家庭。そして、システムの目から切り離された区画。

『美緒』
母の声が、囁くように響いた。
『連絡ができない、んじゃないのかもしれないわよ』

ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。

『連絡を、しないようにしている。システムの方で、意図的に』

カチ、とアナログ時計の秒針が進む音が、やけに大きく聞こえた。
私は、手元の真っ白な回覧用紙に目を落とす。これから私が名前を書き連ねていくこの紙は、本当に子供たちのためのものだろうか。

これは連絡網じゃない。もっと別の、何かだ。
システムの網の目からこぼれ落ちた、あるいは、意図的にふるい落とされた者たちのリストだ。

インクを吸おうと待ち構える紙の白さが、ひどく恐ろしかった。