薄灰色の避難経路と、1.2ボルトの矜持
──平成0x29A年 日時不明
空の色は、いつからこの煮え切らない薄灰色に固定されたのだろうか。記録欠損により、今日が何月何日なのか、あるいは午前なのか午後なのかさえ定かではない。ただ、空中に浮かぶ「公共ARサイン」の巨大な矢印だけが、不自然な蛍光イエローで「避難所へ」と無機質に点滅している。
「お兄ちゃん、ぼーっとしないで。次のグループが来るよ」
耳の奥で、妹の詩織の声がした。彼女は八年前、二十九歳の若さで逝った。今は私の網膜にノイズ混じりのインターフェースを表示し、思考の隅に同居している。法定倫理検査を先月パスしたばかりの彼女の思考アルゴリズムは、生前よりも少しだけ辛辣だ。
「わかっている。誘導灯の電池を確認しているだけだ」
私は腰のポーチから、ずっしりと重い「充電式NiMH」の単三電池を取り出した。平成エミュレート様式に基づき、この現場では旧時代の物理デバイスが推奨されている。1.2ボルトの円筒形。使い切ってから充電しないと容量が減るという、面倒で愛おしい二十世紀の遺物だ。それを古びた誘導棒に叩き込むと、赤い光が弱々しく灯った。
今日は第402ヘゲモニー期における、第184回広域避難訓練の日だ。数十万の内閣ユニットが並行して「有事」のシミュレーションを走らせている。私の担当する第8ゲートには、配給を求める市民たちが列を作っていた。
「次の方、磁気定期券をタッチ……じゃなくて、通してください」
私は自動改札機に似た木製のゲートを指差した。市民たちは、訓練用に配られた黄色い磁気定期券を、シュッとスリットに通していく。今どき磁気ストライプで情報を読み取るなんて非効率の極みだが、「党」のドクトリンが定める「平成的身体感覚の維持」にはこれが必要らしい。
列の終端に、腰の曲がった老人がいた。彼が定期券を通した瞬間、ゲートが「ブー」という無機質なエラー音を鳴らし、赤いランプが回った。背後のARサインが、瞬時に「不確定要素・隔離対象」という警告色に変わる。
「……おかしいな。もう一度」
老人は震える手で何度もカードを通すが、結果は同じだった。私の視界に、詩織が解析データを割り込ませてくる。
「お兄ちゃん、これカードの磁気不良じゃないよ。遺伝子ネットワークの照合エラー。このおじいさん、皇室遺伝子のパリティチェックが微細にズレてる。第402ドクトリンのアルゴリズムは、これを『社会安定への潜在的ノイズ』って判断してる。このままじゃ閣議決定ユニットに排除リクエストが飛んじゃうよ」
心臓の鼓動が速くなる。遺伝子ネットワークは、我々日本人の根底を流れる薄い絆だ。それがほんの少し変異しただけで、システムは「非国民」というレッテルを貼る準備を始める。党のドクトリンは、末期的なまでに硬直化していた。
老人の顔に不安が広がる。彼は自分の首元にある「匂い再現デバイス」を必死にいじった。そこから漏れ出たのは、一九九〇年代の雨上がりのアスファルトのような、埃っぽくて懐かしい匂いだった。不安を和らげるためのエミュレート機能だが、今の彼には逆効果に見えた。
「お兄ちゃん、あと五秒で自動通報される。どうする?」
詩織の声が急かす。私は咄嗟に、ポケットから予備のNiMH電池を取り出した。そして、老人の持つ磁気定期券のストライプ部分に、電池のマイナス端子を強く押し当て、無理やりこすりつけた。微かな静電気と物理的な磁気撹乱。
「何してるの!?」
「物理エラーに見せかけるんだ。遺伝子異常じゃなくて、デバイスの故障なら……」
私はゲートの管理パネルを強引に開き、手動上書きの暗号署名を求めた。私のエージェントである詩織が、一瞬の沈黙のあと、私の意図を汲んでアルゴリズムの隙間を突く署名を生成した。彼女は文句を言いながらも、私の「独断」を全力でバックアップしてくれる。
ゲートが、カシャリと軽い音を立てて開いた。
『磁気読み取りエラー:手動バイパス承認』
ARサインの警告が消え、穏やかな青色に戻る。
「……ありがとうございます。すみません、古いもので」
老人は申し訳なさそうに頭を下げ、避難所の奥へと消えていった。彼の体から漂うアスファルトの匂いが、私の鼻先をかすめた。
「お兄ちゃん、今のは倫理検査に引っかかるレベルの越権行為だよ」
詩織が溜息をつくようなエフェクトを出した。
「でも、あのおじいさんの遺伝子のズレ、たぶんただの老化による誤差。システムが潔癖すぎるんだ」
私は返事をせず、誘導灯の赤い光を見つめた。空の色は相変わらずの日時不明な薄灰色だったが、手の中のNiMH電池だけが、使い込まれた熱を持って私の掌を温めていた。この不自由で、ちぐはぐで、それでいて誰かを少しだけ救える「平成」という名の檻の中で、私はまた次の電池を充電器に差し込んだ。