駐輪場の紙札が剥がれる頃、祖母は別の声で笑う

──平成0x29A年11月25日 13:10

午後一時を過ぎた水耕ハウスの中は、いつも通りLEDの薄紫に染まっていた。

トマトの第三列、葉裏の水滴を指で弾く。ぱち、と小さな音。祖母なら「触るな、菌が移る」と怒鳴っただろう。でも今、右耳のイヤーカフから聞こえる祖母の声は黙っていた。

「ばあちゃん」

呼びかけると、三秒ほど間があって、笑い声が返ってきた。

くくく、と。

祖母の笑い方ではなかった。祖母——宮下ハナ、享年七十三、慢性閉塞性肺疾患。あの人は「はっはっ」と息を切らすように笑う人だった。くぐもった、喉の奥だけで転がすような笑いはしない。

「……何がおかしいの」

「いや、あんたがトマト撫でてるのが」

口調は祖母だった。語尾の上げ方も、「あんた」のイントネーションも。でも笑い声だけが、違う。

先月の法定倫理検査から戻ってきてから、こういうことが増えた。代理エージェントに一週間預けて、返ってきた祖母は、ときどき別の人みたいに笑う。

ポケットのガラケーが震えた。分散SNSの通知だ。折りたたみを開くと、水耕組合のスレッドに新しい投稿。「第42食糧ブロック水耕C棟、窒素比異常。閣議リクエスト提出済」。投稿者のアイコンはMDプレーヤーの絵文字。その下に、AR広告のタグが一行——「<平成スタイル・有機栽培キット>今なら初月無料」。

ガラケーの画面を閉じて、目の前のトマトに焦点を戻す。AR広告の残像が視界の左上にうっすら浮いていた。水耕ハウスの中でも追いかけてくる。瞬きを三回すると消えた。

「ばあちゃん、窒素比、うちのC列も少し高い気がするんだけど」

「ああ——ちょっと待ちな」

データを参照する沈黙。それはいつもの祖母だった。几帳面に数値を突き合わせて、ゆっくり答えを出す。

「0.3上振れ。許容内だけど、午後の循環タイミング、十五分早めときな」

「了解」

制御パネルに向かいながら、ふと思い出す。昨夜、眠れなくて深夜ラジオをつけた。AMの周波数帯を手動で合わせる古いポータブルラジオ。ノイズの向こうからDJの声が聞こえて、リクエスト曲が流れた。知らない歌だった。たぶん二〇〇〇年代の何か。その曲のサビで、祖母が——寝ているはずの祖母のエージェントが——突然ハミングした。

祖母はあの曲を知らないはずだ。

「ばあちゃん」

「なに」

「昨日の夜、ラジオ聴いてた?」

「……あたしは寝てたよ」

エージェントに睡眠はない。それは祖母も知っている。知っていて、そう答えた。

ハウスを出ると、十一月の風が冷たかった。駐輪場に停めた自転車のハンドルに、白い紙札がくくりつけられていた。「放置車両警告 撤去期限:平成0x29A年12月1日」。風で端がめくれている。

紙札を外しながら、指先に祖母の——祖母でない何かの——笑い声がまだ残っている気がした。

自転車に跨る。ペダルを踏むと、イヤーカフから小さく、あのハミングが聞こえた。

知らない曲。知らない声。祖母の口調で。

振り返らなかった。振り返ったら、確かめてしまう。確かめたら、倫理検査に出さなければならない。出したら、また一週間、代理エージェントの無機質な応答と暮らすことになる。そしてまた戻ってきた祖母は、もう少しだけ、別の誰かになっているかもしれない。

ペダルを漕ぐ。AR広告が視界の隅にまた浮かんだ。

「<平成スタイル・有機栽培キット>——」

瞬きしても、今度は消えなかった。