再起動、あるいは六月の各駅停車

──平成0x29A年06月18日 09:30

 枕元で、伊集院光の合成音声が「昨日食べたコンビニ弁当の上げ底」について熱弁を振るっている。平成の頃から続く深夜ラジオのアーカイブは、この時代、もはや環境音のようなものだ。私は重い瞼を押し上げ、平成0x29A年6月18日の朝を迎えた。時刻は午前9時。寝坊というわけではない。私の仕事である「アーカイブ整合性の目視確認」は、いつ始めてもいい自由裁量労働だ。

「ハル、また同期が滑ってるわよ。左目の虹彩、少し赤くなってない?」

 視界の端に、姉の結衣がホログラムのノイズとして現れた。享年十九。心不全で亡くなった時のままの姿だ。彼女は私の近親人格エージェントとして、脳内のチップから日常をサポートしてくれている。

「ただの寝不足だよ。昨日のデータの波形が荒れてたからさ」

 私は洗面台に向かい、生体認証を兼ねた鏡に顔をかざす。赤いレーザーが網膜をなぞるが、電子音が「ピー」と無機質に拒絶を告げた。個人データの再同期エラー。この集合住宅のメインサーバーと私の生体情報が、わずかにズレているらしい。歯ブラシに自動でペーストが乗るはずが、ノズルは微動だにしなかった。仕た方なく、手動でチューブを絞る。

 玄関を出ると、ドアの隙間に紙の折込チラシが挟まっていた。今時珍しい物理媒体だ。「平成二十年六月、特売セール」と銘打たれたそれは、近所のスーパーが「党」のドクトリンに従って再現しているエミュレーションの一環だ。白菜一玉百五十円。この数字にどんな経済的意味があるのかは誰も知らない。私はそれを丸めてポケットに突っ込み、一階の共有ゲートへ向かった。

 ここでも生体認証が弾かれた。ゲートのバイオメトリック・センサーが私の指紋を「未登録」と判定する。

「もう、しっかりしてよ、第204内閣ユニット」

 結衣が私の肩に乗るような仕草でぼやく。実際、最近の統治アルゴリズムはガタがきている。数十万のユニットが並列で回しているはずの行政処理が、ときどきこうして個人の末端データを見失うのだ。

 駅まで歩き、バイオメトリック改札の前に立つ。ゲートは開かない。後ろに並んでいたサラリーマン風の男が、苛立ったように舌打ちをした。私は軽く頭を下げて列を外れる。その時、視界が真っ赤な通知で埋まった。

【緊急:貴殿は現在から5分間、第0x7F4内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました。閣議決定リクエストが7件届いています。署名してください】

「あら、おめでとう。総理大臣様」

 結衣が可笑しそうに笑う。私は溜息をつき、改札の脇のベンチに腰を下ろした。目の前の空中インターフェースに、暗号化された政策変更リクエストが並ぶ。その中の一番上に「広域生体認証プロトコルの再同期」という項目があった。まさに今、私が直面している問題だ。これを承認すれば、私のデータも正常に戻るはずだ。

 私はエージェントである結衣の補助を受けながら、党ドクトリンに基づくアルゴリズム署名を実行した。指先で空間をなぞり、崩壊しかけている古いコードの隙間を埋めていく。五分間の絶対権限。だが、それは大海の一滴に過ぎない。私が署名した瞬間に、別の十万のユニットが反対の署名をしているかもしれないのだ。

「はい、お疲れ様。任期終了よ」

 五分が経ち、通知は消えた。私は立ち上がり、再びバイオメトリック改札に挑んだ。センサーに掌をかざす。結果は、やはり「ピー」という拒絶音だった。

「……反映に時間がかかるのか、それとも別のユニットに蹴られたか」

「たぶん、両方ね」

 結衣はあっけらかんと言った。改札の向こう側では、九〇年代風のスーツを着た人々が次々と吸い込まれていく。彼らのデータは幸運にも同期されているらしい。私は改札を通るのを諦め、駅の出口へ向かった。

「歩こうか。会社まで一駅だし、天気もいい」

 ポケットの中で、先ほどの折込チラシがカサリと音を立てた。チラシの裏には、誰が書いたのか「この世界は、少しずつ忘れていっている」という殴り書きのメモがあった。それもまた、古いアルゴリズムが吐き出したゴミのような真実なのだろう。

 六月の湿った風が頬を撫でる。私は深夜ラジオの続きを再生した。伊集院光がまだ笑っている。同期がズレていようが、世界が平成の幻影を踊っていようが、私の足はアスファルトの感触を確かに捉えていた。それで十分だった。