感熱紙の指紋
──平成0x29A年 日時不明
【日記 第402ヘゲモニー期 某月某日(水)】
朝。定期券を改札に通したとき、左手の触覚端末がびりっと震えた。いつもの「おはよう」の振動パターンとは違う。端末の画面を見ると、代理エージェント七号からの通知だった。
「倫理検査、延長のお知らせ。伯母・小野寺ハツエの人格エージェントの復帰は更に三営業日を要します」
三日。もう二週間経ってるのに、まだ三日。
磁気定期券をパスケースに戻す。自動改札機のくせに磁気を読むたびにキュルキュルと音がするのは、この駅だけの癖だ。定期券の表面がすり減って、私の名前「小野寺楓」の「楓」がほとんど読めなくなっている。
触覚端末をポケットに入れた。伯母さんのエージェントなら、改札を出るたびに「今日も売れるといいね」と左手首にぽんぽんと二回叩くような振動を送ってくれた。代理七号はただ通知を送るだけだ。
午前九時半。シャッターを上げて、店を開ける。
駅前商店街の中ほどにある文具・事務用品店「小野寺堂」。祖父の代からやっている。私で三代目。客の大半は近隣の事業所と学校関係者で、あとはたまに通りすがりの人がボールペンを一本買っていく。
開店してすぐ、バックヤードのFAX機が鳴った。
じーーーーーー、がちゃがちゃがちゃ。
感熱紙がゆっくり這い出てくる。分散SNSの通知がFAX転送で届く設定にしてある。伯母さんが「画面で読むより紙のほうが落ち着く」と言って組んだ仕組みで、伯母さんが検査に入ってからも変えていない。
出てきた紙を読む。商店街組合のアカウントからの転送。
「本日、第0x7A2F1内閣ユニットの閣議案件として、商業区画における営業時間帯の変更リクエストが上がっています。関係者は確認を」
その下に代理七号が自動翻訳した要約が印字されていた。
「営業時間を三十分前倒しにする提案です。賛成が推奨されます」
——違う。
原文を見直す。変更リクエストの差分断片には「深夜帯の営業許可枠の拡張」と書いてある。前倒しじゃなくて、深夜枠の話だ。代理七号が「深夜帯拡張」を「前倒し」と誤訳している。
伯母さんなら間違えない。元々この店の帳簿を四十年つけていた人だ。「深夜」と「早朝」の区別くらい、商売人の骨身に染みていた。
代理七号に訂正を入力する。触覚端末の表面をなぞると、指先にざらりとした抵抗がある。仮想キーボードの「凹凸」。この触感だけは悪くない。
午後。客は三人。コピー用紙、修正テープ、あと領収書の束。
暇な時間に、FAXで届いた分散SNSの続きを読む。商店街のアカウントに誰かがぶら下げたコメント。
「うちの代理も同じ誤訳出した。七号系列のバグじゃないか」
別の誰か。
「閣議の承認結果、もう出てる。誤訳のまま通ってないか確認したほうがいい」
胃が少し重くなる。
代理七号に問い合わせた。「本日の閣議案件の承認結果を」
触覚端末が短く三回震える。代理の定型応答。「承認済み。ドクトリン署名照合——適合」
適合。あのアルゴリズムは半分解けているのに、適合だけはきっちり返ってくる。
原文と七号の翻訳を並べて、もう一度FAXの感熱紙を見た。指で触ると、印字されたばかりの文字がまだほんのり温かい。
閉店後。シャッターを下ろして、磁気定期券で改札を通る。キュルキュル。
触覚端末がぶるっと震えた。代理七号の定時メッセージ。
「お疲れさまでした」
一回だけの、平坦な振動。
帰り道、ポケットの中で感熱紙の切れ端に指が触れた。まだかすかに温かいような気がした。誤訳が印字された紙。捨てそびれたのか、捨てたくなかったのか、自分でもわからない。
伯母さんが戻ってきたら、この紙を見せよう。
「七号、こんなことやらかしてたよ」って笑いながら。
指の腹に、感熱紙のつるつるした表面がいつまでも残っている。