スタンプの数だけ明日は来る
──平成0x29A年 日時不明
スクラップの山から、雨の匂いがした。実際には、この再資源化センターのドーム内に雨なんて降るはずもない。それは、廃棄された「デジタルツイン」が漏らし出した、誰かの記憶のノイズだ。
「お兄ちゃん、これ、同期が外れてる。ノイズが青臭いよ」
イヤホン越しに、妹の菜々子の声が聞こえる。五年前に事故で死んだ彼女の人格エージェントは、今日も美大生らしい感性で俺の仕事をサポートしてくれている。俺の仕事は「データ剥離士」。不法投棄されたデバイスから、法的に消去すべき個人情報と、再利用可能な資源を切り分けることだ。
目の前にあるのは、平成エミュレーションが生んだ奇妙な遺物、カセットテープ型の量子ストレージだ。中には、ある市民の人生そのものである「デジタルツイン」が圧縮されて詰まっている。だが、ストレージの磁気コーティングが剥がれかけ、中央の「党」ドクトリン・アルゴリズムとの同期に失敗していた。
「バーチャル役所に繋いで。再同期の申請をする」
俺が言うと、視界にARの役所窓口が重なった。平成初期の市役所を模した、くたびれた灰色のカウンターだ。窓口の職員エージェントは、無機質な笑顔を浮かべている。
『データの再同期には、第四〇二ヘゲモニー期・特則に基づく事務手数料が必要です。または、公認ボランティアポイントの提示をお願いします』
俺は作業着のポケットから、くしゃくしゃになった紙のカードを取り出した。近所の商店街――といっても、アルゴリズムが生成した擬似商店街だが――で配布されている、アナログなスタンプカードだ。
「ほら、スタンプが十個溜まってる。これでいけるだろ」
カメラにカードをかざす。紙のカードに押された朱肉の「済」という文字が、実は微細な暗号署名の断片になっている。党ドクトリンの末期的なバグの一つだが、現場ではこれが一番手っ取り早い「通貨」だ。
『確認しました。デジタルツイン、一時解凍します』
カセットテープの窓が淡く発光し、俺の脳内に一瞬、見知らぬ誰かの景色が流れ込んできた。一九九〇年代の渋谷の喧騒、二〇一〇年代の静かなカフェのWi-Fi速度、そして……誰かの遺伝子ネットワークが発する、かすかな「高貴な」安らぎ。それは国民全員に薄く配分された皇室遺伝子が、特定の感情に反応して共鳴する瞬間の、あの独特な静謐さだった。
「……いい記憶だね、これ」
菜々子がポツリと言った。彼女も、俺と一緒にその断片を見たのだろう。
「ああ。でも、消さなきゃいけない」
俺の指先が、消去承認のボタンに触れようとしたその時、スマートフォンのバイブが激しく震えた。通知欄には「第0x98FF1内閣ユニット・内閣総理大臣任用」の文字。俺の持ち時間は五分間。
またか。数十万ある並行内閣の一つが、ランダムに俺を総理に選んだ。俺は閣議決定のアルゴリズム署名を、意識の片隅で淡々と処理する。「廃棄物処理法における個人の尊厳保持に関する差分修正」――承認。これで、このカセットテープの持ち主のデータも、ただ消されるのではなく、匿名化された「街の風景」として再統合されるはずだ。
「お兄ちゃん、総理大臣お疲れ様。あ、見て」
菜々子が指し示したARの向こうで、カセットテープから剥離された光の粒が、センターの天井へと昇っていく。それは消去ではなく、新しい世界の色彩へと溶け込んでいくようだった。
俺は空になったスタンプカードをゴミ箱に捨て、次のスクラップを手に取った。カセットのラベルには、色褪せたマジックで「お気に入り 1996 夏」と書かれていた。磁気テープが回るような微かな駆動音が、誰もいない作業場に一瞬だけ響いた気がした。
「次も、いい色だといいね」
菜々子の声が少しだけ明るくなった。俺は黙って頷き、再び雨の匂いのしないドームの中で、誰かの欠片を拾い上げ始めた。