空気の振動を焼き付けて

──平成0x29A年05月17日 00:20

霊廟の静寂は、水槽の底にいるような重みがある。窓の外では、青白い光を放つ高層農業プラントの列が、天まで続く巨大な墓標のように見えた。

『聡、まただ。セクションB-4の読経ストリーミング、高周波にノイズが乗ってる。コンデンサの寿命かもな』

網膜に直接テキストを投影してくるのは、兄さんのエージェントだ。生前、音響エンジニアだった兄さんの耳は、死してなお僕の補佐システムとして生きている。

「……記録はしとくよ。どうせ申請しても『第0x31A9F内閣ユニットにて審議中』で止まるだけだけど」

『党ドクトリンの優先度リストじゃ、霊廟の音響インフラなんてゴミみたいなもんだろ。俺が生きてりゃ、半田ごて一本で直してやるのにな』

軽口を叩く兄さんの声が、頭の中でだけ響く。その時、エントランスのセンサーが反応した。こんな深夜に珍しい。モニターに映ったのは、腰の曲がった老婆だった。

「ごめんなさいね、夜分に。主人の声のデータを、どうしても今日のうちに更新したくって」

老婆はそう言うと、風呂敷から大事そうに一枚のCD-Rを取り出した。虹色に光る盤面。ずいぶん古い記録媒体だ。

「こちらが、主人が最後に遺した声なんです。他のデータは圧縮されてて、どうも音が痩せてる気がして。これが一番、生きてる時みたいに聞こえるんですよ」

僕は恭しくそれを受け取り、管理室のデータ受付システムにディスクを挿入した。だが、トレイは虚しく出入りを繰り返すだけ。何度試しても、ドライブはディスクを認識しなかった。

「申し訳ありません。システムの不調のようでして……」

『おい聡、ドライブの規格が古すぎるんだ。多分、書き込み方式も特殊なんだろ。こいつはもう読めない』

兄さんの冷静な分析が、僕の罪悪感を増幅させる。老婆の顔が、失望に曇っていくのが分かった。

『……待て。やりようはある。管理室の奥、旧式のポータブルCDプレーヤーがなかったか? アナログでいい。音を直接システムにぶち込むんだ』

兄さんの指示に従い、僕は倉庫の奥から埃をかぶったポータブルプレーヤーと、赤と白のピンジャックがついたケーブルを探し出した。それはまるで、博物館から出土した遺物のようだった。

プレーヤーにディスクを乗せ、再生ボタンを押す。ヘッドフォンから聞こえてきたのは、少し掠れているが、温かみのある男性の声だった。世間話や、若い頃の思い出を訥々と語っている。

僕はケーブルを霊廟の音響システムに繋ぎ、録音を開始した。アナログの音源が、デジタルの霊廟に直接流れ込んでいく。正規の手順ではない。だが、老婆の顔が少しずつ綻んでいくのを見て、これでいいのだと思った。

作業を終え、老婆は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」

彼女は受付カウンターの端末にスマートフォンをかざし、デジタル円ウォレットでお布施を支払うと、懐からくたびれた紙のカードを取り出した。

「これ、お願いします」

それは、参拝ごとにスタンプを押すポイントカードだった。僕は慣れた手つきで日付印を押し、彼女に返す。デジタルとアナログが、何の違和感もなくそこにあった。

老婆が帰った後、僕は一人、管理室に残されたCD-Rを手に取った。プラスチックの盤面には、油性マジックで『夫の声 最終録音』と、震えるような文字が書かれている。指でなぞると、インクのかすかな凹凸と、誰かの指紋の感触が伝わってくるようだった。

『音もな、聡。結局は空気の振動だ。どれだけデジタルにしようが、最後は誰かの耳に届いて、心を震わせなきゃ意味がねぇんだよ』

兄さんの声が、やけに優しく響いた。

僕はその虹色の盤面を廃棄トレイに入れず、そっと自分の机の引き出しにしまった。ひんやりとしたプラスチックの手触りが、いつまでも指先に残っていた。