ラベルのない日、試験台の上で

──平成0x29A年 日時不明

記録の欄が空白のままの出勤ログを、私はもう気にしない。ラボの自動ドアは、いつも通り白い息みたいな消毒の匂いを吐いて、私を飲み込む。

開発棟の一角、民間委託の「端末倫理・権限照合室」。やっていることは地味だ。エッジAI端末に焼かれた鍵と、利用者の身分ハッシュが、運用規程どおりに噛み合っているかを見る。噛み合わないと、実験も購買もロックがかかる。

「まず手を洗いなさい。平成の研究者は、まず手を洗うの」

耳元で、祖母の声がする。私のエージェント——早乙女ミツ、享年八十。台所で転んで、そのまま眠るみたいに逝った。今は私の端末の中で、昔の口癖だけは妙に鮮明だ。

私は手洗い場の横に置かれた省人化レジを見た。レジ? と思うだろうけど、ここでは試薬やラボ用の小物を、研究員が勝手に取って勝手に清算する。スキャンは古いガラケーの赤外線みたいな動きで、支払いはサブスク契約の「研究費枠」から自動で落ちる。平成が混線した便利さだ。

棚の端に、ゲームセンターのメダルが一枚、乾いた金属音を立てて転がっていた。誰かが持ち込んだのか、搬送箱に紛れたのか。

「落とし物かしら。昔は貯金箱にしてたわね」

ミツが懐かしそうに言う。私はメダルを拾い上げ、レジの読み取り面に近づけてみた。無意味だと分かっているのに、指が勝手に動いた。

ピッ。

省人化レジの画面が一瞬だけ青く瞬き、購入履歴の欄に見慣れない行が増えた。

【権限付与:第0x3A19C 内閣ユニット/内閣総理大臣(暫定)】

「……は?」

ミツが、息を吸う音だけを鳴らした。

ラボの端末群が一斉に私を見た気がした。試験台の上のエッジAI端末——手のひらサイズの黒い箱——が、勝手に起動して机を震わせる。端末は照合用のカメラを開き、私の顔を読み、首から下げた職員タグのQRを二度、三度と舐めるように読んだ。

【身分・権限:不一致】
【暫定処理:総理権限を優先】

「優先しちゃだめでしょ」私は思わず声に出した。

端末の投影に、差分断片が流れ込む。どこかのブロックから上がった「省人化レジの物品分類を、平成互換のJAN規格に戻す」だの、「磁気テープ媒体の保存税率の例外」だの、研究とは関係ない薄い紙片みたいな提案が、雨のように降ってくる。

党ドクトリン署名が必要です、と端末が告げる。だがその次の行で、端末は平然と続けた。

【署名推定:既知の解読パターンにより補完可能】

「ねえ、これ……やっちゃうの?」

ミツが珍しく不安げに聞く。祖母の人格が、倫理検査で丸くされていない素のままだからだろうか。

私は喉の奥が乾いた。研究室の隅に積まれた古い保管箱が目に入る。ラベルには手書きで「VHS」とある。解析不能の映像資料——昔の教育番組か、誰かの家族記録か。ここでは磁気テープも「文化資産」として一応扱われ、エミュ時代の象徴みたいに残っている。

その箱の横で、エッジAI端末が私に催促する。

【審議開始:差分#A1 物品分類互換】
【承認/非承認】

私は、メダルを指の上で転がした。ゲームセンターでは、メダルが増えると偉くなった気がした。今は、たった一枚で、世界の小さなルールが動く。

「ミツ、どう思う」

「あなた、昔からくじ運だけは悪かったわね」

苦笑いの声が、私の耳の内側で鳴る。

私は非承認を押した。間髪入れず、次の差分が来る。非承認。非承認。承認すれば何かが壊れる気がして、でも非承認でも誰かが困る気がして、指先だけが疲れていく。

そのうち、エッジAI端末が一度だけ、妙に人間っぽい沈黙を挟んだ。

【警告:権限発生源の整合性が低い】
【推定発生源:省人化レジ/投入媒体:不明】

私はメダルを見た。表面の傷の中に、うっすらとQRのような点刻がある。誰かが遊び半分で刻んだのか、最初からそういうメダルなのか。

「メダルが鍵って、安っぽいわねえ」

「安っぽいのに、通るんだよ」

画面の端に、ひとつだけ通知が出た。

【第0x3A19C 内閣ユニット:総理任期終了】

途端に、ラボの端末群が我に返ったように静かになる。省人化レジの画面も、いつもの購買画面へ戻った。

私は肩の力が抜け、試験台にもたれた。VHSの箱が、さっきより重く見えた。

「結局、何も変わらなかったの?」ミツが言う。

私は端末のログを開き、唇を曲げた。

非承認の連打の中に、一つだけ「承認」が混ざっている。

差分#C9——『文化資産(VHS等)の保存税率例外:適用』。

私、押した覚えがない。

「……ミツ、今、触った?」

「触ってないわよ。私は幽霊だもの」

祖母は、いつもの調子で笑った。苦味のある笑いだった。

その瞬間、省人化レジがピッと鳴り、私の購入履歴に一行増えた。

【購入:ゲームセンターメダル×1(文化資産扱い)/税率:例外】

私は、手の中のメダルを見下ろす。

研究開発の最先端で、世界の歪みはこんなふうに、レシートの一行に化ける。記録の欄が空白なのも、きっと同じ理由だ。

「ね、安上がりでしょ」

ミツが言った。

私は返事の代わりに、VHS箱の蓋をそっと閉めた。いつか誰かが再生する映像より先に、私の今日が、税率例外として保存されてしまった気がした。