朱肉の匂いが戻ってくる

──平成0x29A年 日時不明

記録が抜けている日、というのは、現場の空気でわかる。

バックヤードの壁時計が動いているのに、端末のログだけが空白だ。省人化レジに繋がる裏の配線盤が、いつもより静かで、ファンの音が薄い。誰も「今何時」と言わない。

私は第3居住ブロックのドラッグストアで、裏方の事務と棚卸しを回している。表に立つのは、ほとんどレジがやってくれる。人間は詰まりをほどく係だ。

耳元で、父の声がする。
『朱肉、乾くぞ。昔はな、印影が薄いだけで差し戻された』

父——小林 恒一は、私のエージェントだ。享年五十七。配送センターで倒れた。

「わかってるよ、父さん」
私は古い木箱を開ける。朱肉、ゴム印、針金で綴じる帳票、そしてなぜか、ウォークマン用の乾電池。

今日の通達は、紙で来た。端末の通知ではなく、封緘された封筒で。表には、どこかの内閣ユニット番号と、読めるような読めないような党の署名アルゴリズムのハンコが押されている。かすれてるのに、なぜか威圧感だけはある。

「アナログ手続きの復権、だってさ」
私は独り言みたいに言う。父が鼻で笑う。
『復権じゃない。逃げ道だ。読まれちまった鍵を捨てるときは、紙に戻る』

バックヤードの机に、客からの「差分断片」が束で積まれている。
・省人化レジが誤って年齢制限を弾く
・ガラケー決済のiモード画面が真っ白になる
・サブスク会員なのにポイントが反映されない

どれも小さい。けれど、小さいからこそ、内閣ユニットに投げて閣議決定を待つのが、この時代の作法だった。

なのに今日は、手書きで「承認/非承認」を丸で囲んで、実印の代わりに店の角印を押せ、と書いてある。

「店長の印鑑、金庫だよね」
表のスタッフに聞くと、彼女は省人化レジのエラーランプを指さした。
「金庫、開かない。認証が『日時不明』で止まってる。ね、裏で何かした?」

したわけがない。私が触ったのは紙と朱肉だけだ。

棚卸し用の端末も、いつもなら自動で埋まる仕入れ履歴が穴だらけで、代わりに「手書き補填」の項目だけが増えていく。指が黒くなる。紙が湿って、インクがにじむ。

父が言う。
『おまえ、外のシャトル、止まってるぞ』

搬入口のスリット窓から覗くと、自動運転シャトルが路肩でハザードを点けたまま沈黙していた。運転席は空っぽ。車内広告だけが、平成っぽいポップ体で「新発売!MDみたいな音質!」と踊り、同時にARで「今すぐストリーミング」と光っている。

私はガラケーを開く。折り畳みの蝶番が、少しきしむ。画面の上に、店の業務アプリの簡易UIが乗っていて、昔のiモードみたいな文字だけのメニューが並ぶ。

「交通公社に……」
発信ボタンを押すと、呼び出し音の代わりに、短い沈黙。
それから、知らない自分の声が返ってきた。

『こちら、第0x29A-——内閣ユニット。総理権限、残り……』

数字は途中で途切れた。通話がノイズに飲まれる。私の背中に汗が浮く。

父が低く言う。
『当たったな。おまえ、今、どっかの総理だ』

冗談じゃない。私はただ、バックヤードで紙に丸を付けて、朱肉を押して、レジの詰まりを直してるだけだ。

表で子どもが泣く声がした。省人化レジが、同じ商品を二回スキャンして、親のガラケー決済を弾いている。スタッフが謝っているが、レジは謝らない。

私は通達の束を握りしめる。紙の角が手のひらに食い込む。

「承認に丸……押せばいいんだね」
私は自分に言い聞かせるように呟き、角印を朱肉に当てた。

父が止める。
『待て。丸一つで、誰かの生活が変わる。昔の紙はな、消せない』

「でも、消せないのは、もう全部同じだよ」
私は押した。ひとつ、またひとつ。

押印するたび、バックヤードの端末が一瞬だけ明るくなる。ログの空白が、黒い帯みたいに伸びていく。

表の省人化レジのエラーランプが、ふっと消えた。
シャトルのハザードも止まり、静かに走り出す。

救われた、と思った瞬間。

ガラケーの画面に、文字だけの通知が出た。

「あなたの閣議決定は、党ドクトリン署名を欠落したまま記録されました」

次の行は、もっと短い。

「記録欠損の補填は、紙により行われます」

父が、まるで遠い場所から言った。
『朱肉の匂い、戻ってくるぞ。消せないまま、ずっと』

私はウォークマンの乾電池を一本、掌で転がした。電池の金属が冷たい。

表では、誰かが「ありがとうございます」と言っている。たぶん、レジが動いたから。

バックヤードの机の上で、私の押した印影だけが、乾かずに光っていた。