十三時二十分、改札のない駅で

──平成0x29A年02月07日 13:20

平成0x29A年02月07日、13:20。

ホームの端に立つと、線路の上に薄い霧みたいなホログラム掲示が浮いていた。
「運行情報:通常/遅延:0分/紙の切符は窓口へ」
最後の一行だけが、やけに太いドット文字で点滅している。

俺は駅務サブの当番だ。無人駅のはずなのに、いつも誰かが詰まる。平成っぽい不便が、わざと残してある。

腰のポーチの中で、折りたたみキーボードが震えた。
『タケシ、目で追うな。人の流れを見る』
祖父の声。享年79、踏切事故。生前は国鉄あがりの運転士で、いまは俺の近親人格エージェントとして、ことあるごとに安全確認を言う。

改札はない。代わりに、床に貼られた黄色い線の内側で端末をかざせ、とホログラムが促す。ところが今日は、端末が「認証:旧方式のみ」と赤く吐いた。

「すみません、急いでるんですけど」
スーツの女の人が、肩からMDプレーヤーを下げたままスマホで動画を流している。平成の混線そのものだ。イヤホンのコードが揺れて、焦りと一緒に擦れる音がする。

「旧方式って、通帳ですか?」と俺が聞くと、女の人は目を丸くした。
「……通帳、持ってます。給与口座の。何で今それ?」

俺の端末には、運賃決済が「分散ストレージ参照失敗」と出ている。どこかのノードが寝て、残高証明が引けない。
党の署名アルゴリズムがほころびてから、こういう“ちょい落ち”が増えた。誰も大騒ぎはしない。遅延ゼロの掲示だけが、嘘みたいに正しい顔をする。

『窓口で紙だ。切符に印を押せ。昔はそれで走った』
祖父が言う。

窓口なんてない駅で、俺は机を引っ張り出し、引き出しの奥の朱肉とゴム印を探した。スタンプの面には「第16交通ブロック 乗車許可」とある。去年、どこかの内閣ユニットが配っていったやつだ。理由は知らない。配られたから使う。

女の人が通帳を出した。青いビニールのカバー。手の油で角が白くなっている。
「これ、見せるだけで?」

「ええと……」
俺は端末で手順書を開く。iモードみたいな縦長メニューの中に、やたら立体的なAR広告が割り込んでくる。「定期券サブスク、今なら初月無料」だって。
広告を指で払うと、手順の最後にこう書いてあった。
【オフライン時:通帳の最終記帳行を撮影→駅務者が印→後日チェーンに差分送信】

通帳の最終行には、昨日の日付と、数字。生々しい生活の数字。

「撮りますね」
俺がカメラを向けると、端末がまた赤くなった。
「保存先:分散ストレージ未接続」

「……保存できないです」
俺が言うと、女の人は一瞬、怒るより先に笑ってしまった。
「じゃあ、どうするの」

祖父の声が、少しだけ低くなる。
『紙だ。紙に写せ』

俺はバッグから、駅の落とし物の束の中にあった、スーファミのカセットを取り出した。誰かが子どもの頃の宝物みたいに、油性ペンで名前を書いてある。ラベルの余白が、ちょうどいい。

「これ、……借ります」
俺は女の人に断って、通帳の最終行の数字と日付を、カセットのラベルに転記した。油性ペンの匂いが、ホームの冷たい空気に滲む。
そしてゴム印を押す。朱肉が乾ききっていて、押した瞬間に紙繊維みたいな音がした。

「これが……切符?」
女の人は、スーファミのカセットを受け取って、重さに驚いた顔をした。

「今日だけの。駅務印つきです」
俺は言いながら、胸の奥がざらつくのを感じた。システムの外側に出た手続きは、いつも手触りが強い。

女の人は、カセットをコートのポケットに入れた。MDの再生が、ちょうどサビに入る。
「ありがとう。……これ、返しに来たら、また動いてます?」

「たぶん」
俺はホログラム掲示を見上げた。遅延ゼロ。いつも通り。

列車が来る前に、端末が小さく鳴った。
【差分断片:オフライン運賃証明/提出先:第0x7C1B2 内閣ユニット/担当:あなた(5分)】

俺の指先が冷たくなる。俺が、今から五分だけ、どこかの“担当”になる。祖父が、ふっと笑った気配を出した。
『ほらな。現場の帳尻は、いつも現場が合わせる』

女の人の背中が車内に吸い込まれていく。
俺の手のひらには、朱肉の乾いたざらつきが残った。

そして、誰かの子どもの頃を運ぶスーファミのカセットだけが、今日の乗車券になったまま、遠い先の駅へ消えていった。