きらめく光の校正じかん

──平成0x29A年07月19日 21:00

「遥、そこの助詞は『が』じゃない。『の』だ。主体が曖昧になる」

網膜に直接投影された父の声。いや、父だったものの声。私はゲームセンターのけたたましい電子音の洪水の中で、スマートグラスに映る原稿の赤字を睨んでいた。

「でも、生成AIのロジックだとこっちが自然だって。党ドクトリンの推奨表現にも近いし」

『党のアルゴリズムなんぞ、ただの癖だ。昔の検閲官の赤ペンと変わらん。お前は文章のプロだろう』

父は生前、新聞記者だった。だから、エージェントになっても文章にはうるさい。私が今、格闘しているのは、来週末に配られる折込チラシの記事。近所に新設された高層農業プラントの紹介文だ。生成AIが叩き台を書き、私が校正する。それが今のライターの仕事。

「ちょっと休憩! プリクラ撮ろ、遥!」

友人のミキが私の腕を引く。巨大なプリクラ機の前に立つと、けたたましいガイド音声が流れた。ARエフェクトで宇宙服を着せられたり、猫耳を生やされたり。撮影が終わると、プラスチックの匂いがする温かいシールが出てきた。ミキはそれをパシャリと二つ折りのガラケーで撮影している。

「この、物理的に出てくる感じがいいよね」

そう言って笑う彼女の横で、私はまた原稿に意識を戻した。

『…そこの『新鮮な野菜が食卓へ』という一文。ありきたりだ。もっと具体性を持たせろ。『垂直農園のLEDを浴びたレタスが、今朝あなたのサラダになる』。これなら署名アルゴリズムのチェックサムも通る』

父の提案は、いつも少し詩的で、そして的確だった。たしかに、この方が読んだ人の記憶に残る。指先でテキストをなぞり、父の言葉に置き換えていく。生成AI校正というのは、AIと、死んだ父と、そして見えない党ドクトリンとの三人四脚みたいなものだ。

「できた…」

最後の句点を打ち、保存ボタンを押す。すぐに緑色の認証完了通知がポップアップした。党中央ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名、承認。これで私の仕事は終わり。チラシは無事に印刷される。

「ねえ、これ見てよ」

ミキが、さっき撮ったプリクラの半分をちぎって渡してくれた。宇宙服姿の私たちが、不自然な笑顔で写っている。その隅に、小さな明朝体で一行、印字があった。

【第0x29A7C内閣ユニット 内閣総理大臣就任記念】

「え…」

「さっき、5分間だけ総理大臣だったんだよ、遥。気づかなかったの? 何かやっとけばよかったのに、世界のインフラ止めるとかさ!」

ミキが悪戯っぽく笑う。私は自分のスマートグラスの通知ログを慌てて確認した。確かに、認証完了の通知の二つ前に、内閣総理大臣への任命と、その任期満了を告げる通知が並んでいた。校正に夢中で、まったく見ていなかった。

世界を回すための5分間。私はそれを、たった数百文字の記事を仕上げるために使い切ってしまったらしい。

「うーん…」

私はプリクラの小さな文字を指でなぞった。

「でも、私には世界より大事な締め切りがあったから」

そう呟くと、網膜の向こうで父が静かに言った。

『それでいい。いい記事になった』

生前、一度も褒めてくれたことのなかった父からの、初めての肯定だったかもしれない。

私は、ゲームセンターのネオンに照らされたプリクラを見つめたまま、誰にともなく、でもはっきりと、心の中で問いかけた。

「…ねえ、お父さん。私、ライターになってよかったかな」