駐輪場の紙札、空から届く周波数

──平成0x29A年11月07日 10:40

 十時四十分、水道局第三分室の窓口に誰もいない。

 当たり前だ。予約制でもないのに、紙の申請書を出しに来る人間なんて月に二人いるかいないかだから。

 あたしはカウンターの奥で、ガラケーの画面を親指でぱちぱち叩いていた。ストリーミングで落語を聴きながら。イヤホンの左耳からは自動翻訳が英語の字幕みたいにぶつぶつ囁いてくる。設定を戻し忘れていた。「……and so the raccoon said to the fox——」うるさい。右耳だけで聴く。

『暇ならカウンター拭きなさい』

 エージェントの声。姉さんの声だ。七年前に死んだ姉の、あの少し鼻にかかった声。享年二十九、心臓の先天性の何か。あたしより三つ上で、生きてた頃からこの調子だった。

「拭いたよ、朝」

『じゃあもう一回。暇でしょ』

 反論する気にもならず、台拭きを絞る。蛇口をひねると水が一瞬だけ赤茶色に濁って、すぐ透明に戻った。第三分室は古い。配管が古い。ここだけ昭和みたいだと所長が言っていたが、昭和が何かはよく分からない。

 窓口の鈴が鳴った。

 立っていたのは六十代くらいの男性で、片手にビニール袋、もう片手に紙の束を握っている。

「水道の、名義変更届を出したいんですが」

「端末からでも出せますけど」

「知ってる。でも端末が受け付けんのよ。署名のあれ、ドクトリン照合とかいうやつ、三回弾かれた」

 ああ、と思った。最近多い。アルゴリズムの鍵がほとんど割れているせいで、逆に照合が厳しくなった部分がある。正規の署名なのに偽造と区別がつかなくなっている、という噂を所長がぼやいていた。

「紙でも大丈夫です。身分証明と、住居の確認書類を——」

 男性がビニール袋からごそごそと出したのは、映画のチケットの半券だった。

「……これは」

「住所の証明になるかと思って。裏に住所書いてあるでしょ、予約のとき」

 半券の裏に、確かに手書きの住所がある。油性ペンで、几帳面な字。

『受けられないでしょ、そんなの』と姉さんが耳元で言う。

「あの、正式な住居証明が必要でして」

「これもある」

 次に出てきたのは駐輪場の紙札だった。月極契約の、あの首からぶら下げるタイプの。住所と名前が印字されている。

「……駐輪場の紙札」

「住所も名前も入っとるよ」

『入っとるよ、じゃないのよ』と姉さんが呆れた声を出す。

 あたしは紙の申請書の裏面を確認した。受理要件の欄。「住居を証する書面」としか書いていない。端末申請が主流になってから、紙の様式は二十年以上更新されていなかった。厳密な定義がない。

「少しお待ちください」

 所長に内線をかけたが出ない。木曜は所長、内閣ユニットの当番日だ。五分だけどこかの総理大臣をやって、すぐ戻るとは言っていたが。

 カウンターの上の空中ディスプレイが薄く点滅して、内閣ユニット第0xE38A2の閣議速報を流している。政策変更リクエスト四十一件、承認十八件、非承認二十三件。所長の名前は出ない。出るわけもない。五分で終わる仕事だ。

 男性はカウンターに肘をついて、静かに待っている。

『受けちゃいなさいよ』

 姉さんが言った。さっきと逆のことを。

『書面としか書いてないんでしょ。紙札だって書面じゃない。あんた真面目すぎるのよ、昔から』

 左耳の自動翻訳が、姉さんの言葉を拾って小さく囁いた。「You're too serious, as always.」

 あたしは受付印を押した。朱肉が少しかすれた。駐輪場の紙札のコピーを添付書類の欄に貼り、チケットの半券も念のため一緒に挟んだ。

「届きますか」と男性が訊いた。

「届きます。二週間くらいかかりますけど」

 男性は小さく頭を下げて出ていった。ビニール袋が入口のドアに引っかかって、少しもたついた。

 窓口がまた静かになる。空中ディスプレイの閣議速報が消えて、天気予報に切り替わった。十一月の空は高くて、水道の配管の向こうで、かすかに水が流れる音がしている。

 ガラケーを開き直す。落語の続き。右耳から、狸が何か言っている。

『あんたさ、イヤホンの設定いい加減直しなさいよ。英語混ざってるの気持ち悪いでしょ』

「慣れた」

『慣れるなよ』

 姉さんは昔からそうだった。矛盾したことを言って、あたしがどっちを選んでも怒る。

 蛇口から、また少しだけ赤茶色の水が出た。すぐ透明に戻った。配管が古いだけだ。それだけのことだ。