廃液槽の底で、署名は溶ける

──平成0x29A年12月01日 04:40

午前四時四十分。第11資源ブロックの廃棄電子機器解体場は、蛍光灯の青白い光だけが頼りだ。

俺は今日も、古いゲーム機の山と向き合っている。

「恒二、そのPS2はまだ動くんじゃないか?」

耳元でエージェントの声がする。母さんだ。享年五十三。肝硬変で逝った。生前は質屋を営んでいて、物の価値を見極める目だけは確かだった。

「動いても意味ないよ。ライセンス切れてる」

俺は灰色の筐体を手に取り、基板を引き抜く。貴金属回収用のトレイに放り込んだ。

解体ラインの奥では、ホログラム掲示が淡く明滅している。今月の回収目標と、党ドクトリン遵守事項の一覧。文字列は時折文字化けして、平成初期のワープロソフトみたいに崩れる。

「恒二、手書き領収書が必要だって通知が来てるわよ」

母さんエージェントが囁く。俺は作業用タブレットを覗き込んだ。

『貴殿を第0x4A29C内閣ユニット内閣総理大臣に任命。任期:本通知より5分間』

またか。今月三回目だ。

閣議案件が一覧表示される。ほとんどが「廃棄物処理手順の微修正」や「リサイクル率計算式の小数点以下桁数変更」といった、どうでもいい差分ばかり。

俺は適当に承認ボタンを押していく。

その中に、一件だけ妙なものがあった。

『廃液中和剤の配合比変更(第11資源ブロック限定)』

俺が働いているここだ。提出者は上司の名前。内容を見ると、中和剤の一部を安価な代替品に切り替える提案らしい。コスト削減、環境負荷低減、いいことずくめ。

「承認でいいんじゃない?」

母さんが言う。俺もそう思った。承認ボタンを押す。

すると、画面に赤い警告が浮かんだ。

『党ドクトリン署名:不整合検出。再提出を要求』

署名アルゴリズムのハッシュ値が、ドクトリンの要求する範囲から微妙にずれている。ほんの数パーセント。誤差レベル。

「おかしいわね。こんなの初めて見るわ」

母さんの声に、わずかな緊張が混じる。

俺は非承認を選び、再提出を促すコメントを添えた。五分が経過し、総理権限が消える。

作業に戻ろうとしたとき、自動翻訳イヤホンが耳の中で小さく震えた。誰かが多言語チャンネルで囁いている。

『——11ブロック、廃液槽、週明け、気をつけろ——』

聞き取れたのはそれだけ。ノイズに紛れて消えた。

俺は廃液槽の方を見た。巨大なタンクが、静かに呼吸するように膨らんでいる。

「恒二、あの案件、本当に非承認で良かったの?」

母さんが、珍しく不安そうに尋ねる。

「……わかんない」

俺は答えた。PS2の残骸を手に取り、また基板を引き抜く。

蛍光灯が、一瞬だけ明滅した。