紙ポイントの夜明け

──平成0x29A年08月11日 04:00

平成0x29A年08月11日 04:00。駅前の「契約窓口ミナト」は、開店前なのに空調だけが平成の喫茶店みたいに生温い。

ガラスの内側、空中ディスプレイが淡く浮いて、今日の混雑予測と「差分断片受付中」の文字を流している。だけど足元のカウンターには、紙の申込書の束。インクの匂いがする。

「ほら、言ったでしょ。最後は紙に戻るのよ」
耳元で、祖母の声——私のエージェント、永井トヨが勝ち誇る。享年七十六、浴室でぽっくり。いまは私の補助として、契約条項の読み上げまでしてくれる。

私は窓口係じゃない。第19金融ブロックの下請け、署名整形屋だ。分散ストレージに散った契約ログを拾い集め、整合の取れた一本に見せる仕事。いままでは全部自動で、私の手は確認ボタンだけだった。

でも今週から急に「アナログ手続きの復権」だ。
党の署名が軽くなりすぎて、誰でも通せるって噂が広がったせいらしい。だから本人確認は“人が見て紙に残す”。笑える。

空中ディスプレイが、次の来訪者を薄い青で予告する。
《04:02 予約番号A-019 住宅ローン条件差分》

扉が開き、作業服の男が入ってきた。片手に紙のポイントカード、もう片手にコンビニ袋。袋からは乾電池がじゃらじゃら覗いている。

「これ、必要って言われて……」
男は乾電池の山をカウンターに積んだ。単三、単四、たまに角形。

「それは、端末用ですか?」と私。

「端末は空にあるんでしょ? でも近所の人が、電池を持っていけって」

トヨが小声で笑う。「昔の“手土産”みたいね」

私は内心ため息をつきつつ、紙の申込書を差し出した。男の紙ポイントカードには、押印欄がぎっしり埋まっている。平成のラーメン屋みたいなスタンプ。

「これ……金融窓口のポイントですか?」

「え? えっと、駅前のドラッグストアの。十個でティッシュ」

空中ディスプレイが間の悪い広告を挟む。
《今だけ!契約成立でポイント二倍(紙対応)》

私は苦笑いで、窓口の小さなスキャナにカードを置いた。

ピ、と鳴って、ディスプレイに赤字。
《ポイント媒体:紙 認証不能 →手動照合へ》

手動照合。つまり、分散ストレージを人力で辿るやつ。
私は端末を開き、契約者IDを入力する。ログは国内外のノードにちぎれて保存されていて、拾うたびに遅延が変わる。昔のダイヤルアップみたいな待ち。

「乾電池は……不要です」と言いかけて、やめた。
ここでは何が必要になるかわからない。今朝も、プリンタが機嫌を損ねて紙を吐かない。

トヨが言う。「その人、手が荒れてる。現場の人よ。紙に戻すって言っても、結局困るのはそういう人」

私は男にボールペンを渡した。「ここ、差分の希望。金利の上限と、返済猶予の条件だけ、あなたの言葉で」

男はペンを持ったまま固まった。
「……俺、こういうの苦手で。いつもエージェントが勝手に」

「今日は、そのエージェント、倫理検査ですか?」

男は頷く。「代わりのやつ、無口でさ。『同意』しか言わない」

トヨが鼻で笑った。「そりゃ楽ね」

私は空中ディスプレイの片隅に出た通知を見た。
《第0x7C1B2内閣ユニット:差分断片の承認待ち 署名アルゴリズム:簡易化》

“簡易化”。つまり、鍵がほぼみんなに知られてる。
私は紙の申込書に目を落とし、男の震える字を見守った。これが、今の“安全”らしい。

書き終えた紙を受け取り、私は分散ストレージのログへ差分を貼り付ける。空中ディスプレイが白く瞬いて、承認の進捗を表示した。

《照合中…》
《照合中…》

その間、男が乾電池袋を見つめて言った。
「これ、返していいですか。重くて」

私は頷きかけて、ふとカウンター下の引き出しを開けた。そこには、昨日から集まった乾電池がぎっしり詰まっている。誰もが“持っていけ”と言われて持ってきた、山。

トヨが囁く。「ほらね。紙と一緒。誰かが言い出したら、みんな真似するの」

空中ディスプレイが、ようやく結果を出した。
《照合完了:本人確認は紙の署名で代替》
《契約差分:仮承認(内閣ユニット群へ同報)》

その直後、ディスプレイの隅に小さく出る。
《紙ポイント:付与対象 窓口来訪1回》

私は目を疑った。
「……ポイント、付きます」

男が顔を上げた。「え、どこに?」

私は机の端にあった朱肉と、ハンコ——窓口のロゴ入り——を取って、男のドラッグストアの紙ポイントカードの空白に、迷いなく押した。

ぽん。

トヨが笑いをこらえきれない声で言う。「契約でティッシュが近づいたわね」

男はしばらく無言でカードを見て、それから乾電池袋を抱え直した。
「……じゃ、あと九回、来ます」

私は思わず「え」と言い、空中ディスプレイの《混雑予測》が、ほんの少しだけ上方修正されるのを見た。

紙に戻して安全になったはずなのに。
人はポイントのために、何度でも契約窓口へ来るらしい。