暗室は朝四時に開く
──平成0x29A年11月07日 04:00
平成0x29A年11月07日、04:00。
商店街のシャッターは全部眠ってるのに、うちの店だけ赤い「現像中」ランプが灯っている。表向きは「文化保存サロン/写真とレコード」。実態は、早朝だけ回る暗室だ。
私は雨宮涼太、フィルムの現像代行とスキャンをやっている。カウンターの上には、使い捨てカメラと、巻き上げレバーの固いコンパクト機。脇にはMDラジカセが、サブスクの「今週の平成ヒッツ」を勝手に流してる。曲間だけ、ガラケーみたいな縦長UIのAR広告が空中に浮くのがうるさい。
耳の奥で、父の声がする。
『暗室は静かに。薬品が泣く』
父——雨宮宏、享年61。心不全。生前は町の写真屋だった。今は私のエージェントとして、余計なことまで口を出す。
自動ドアが開いて、若い男が入ってきた。帽子を目深にかぶって、手には35mmフィルムのパトローネを二本。
「これ、今日中に」
「朝なんで、スキャンは昼以降ですね」
「現像だけでいい。紙焼きもいらない」
彼は急いでるのに、支払いだけは律儀にデジタル円ウォレットを出した。指をかざすと、端末が小さく鳴る。
……が、決済は通らない。
画面に灰色の通知。
【支払拒否:第402期党ドクトリン署名不一致/文化財関連取引は内閣ユニット承認待ち】
「え、写真現像が文化財……?」
私が声に出すと、父が鼻で笑った。
『“文化”って名札つけたろ。名札が悪い』
若い男は、ため息をついて肩をすくめた。
「じゃ、いつ通るんすか」
「さあ……内閣ユニットの並行処理が、今どれを噛んでるか」
店の奥で、リモート診療端末が勝手に起動した。隣の薬局と回線を共用してる古いやつで、朝はだいたい誰かが血圧を測りにくる。今日は来客ゼロのはずなのに。
端末が機械声で言う。
【地域連携:代理診療受付開始。問診に協力してください】
画面には、私の顔。次に、知らない患者ID。さらに、見慣れない肩書きが小さく点滅した。
【第0x7A1C3内閣ユニット:臨時総理(5分)】
「……は?」
父が一拍置いて、妙に丁寧な口調になった。
『おい、涼太。今、偉いぞ。五分だけ』
若い男が笑いそうな顔でこちらを見る。
「店長、総理っすか」
「ちが、たぶん端末の誤配線……」
診療端末の下に、いつも薬局が使う朱色のボールペンと、手書き領収書の束が置いてある。私は反射でそれを引き寄せた。デジタル円が止まると、結局これが早い。商店街の非公式ルール——「困ったら紙」。
「とりあえず、現像は受けます。支払いは……」
「ツケで」
「ツケは、うち」
「領収書だけ先に切ってくれれば、あとで何とか」
それが、ここらの別の非公式ルールだ。「領収書が先、金はあと」。順番が逆でも、みんな平気な顔をする。
私は領収書に、震える字で書いた。
——フィルム現像料 2本分。
宛名は彼が言った通りに。
その瞬間、診療端末がまた喋る。
【臨時総理へ:差分断片レビュー1件。文化財関連取引の例外承認(商店街)】
画面の右下に、承認/非承認の二択。横で父が囁く。
『押せ。今なら、紙より速い』
私は笑ってしまった。現像液の匂いの中で、指先だけがやけに冷たい。
「承認……っと」
タップした瞬間、店の決済端末が「ピロン」と明るく鳴った。
【デジタル円決済:完了】
若い男が目を丸くする。
「マジで通った……」
私は手書き領収書を差し出して、言った。
「これ、いちおう」
男は受け取って、困ったように笑う。
「デジタルで払ったのに、紙ももらうんすね」
父が、暗室の壁を叩くみたいに言った。
『平成だな』
男が去ったあと、診療端末は静かにカウントダウンを終えた。
【臨時総理:終了】
画面が勝手に切り替わり、今度は本来の問診が始まる。
【症状を選択:咳/発熱/関節痛/……】
患者IDは、さっきの若い男のものに変わっていた。
私は領収書の控えを見下ろす。宛名の欄に、彼の名前ではなく、なぜかこう書かれていた。
「第0x7A1C3内閣ユニット 総理大臣 雨宮涼太 様」
父が、堪えきれないみたいに笑った。
『お前、領収書の宛名まで独裁したな』
私は暗室のドアを閉め、赤いランプを点け直した。
五分の権限で、いちばん確かなものを一枚、紙に残してしまった気がした。