電話帳の余白に、夜が座る
──平成0x29A年07月25日 01:40
平成0x29A年07月25日 01:40。閉館後のミニシアターのロビーは、ポップコーンの甘い油と古いカーペットの埃が混ざって、少しだけ胸が落ち着く匂いがする。
私はここで夜間の映写・館内保守をしている。プロジェクタはとっくに自動化されてるのに、なぜか「人がいること」が規約より優先される。平成っぽい、ってやつ。
耳の奥で、母の声がする。——いや、母の人格が移植された私のエージェント、安西みどり。
『戸締まり、二重。昔はね、映画館ってのはね』
「昔は、って。母さんが言う“昔”も、もう何世代も前だよ」
受付カウンターの下から、分厚い電話帳を引っぱり出す。紙の電話帳。停電時のマニュアルに「索引として使用」と書いてあるけど、実際は違う。
ロビーの片隅で、ロボ清掃員がゆっくり旋回する。背中の表示板に「オソウジくんMk.4」と出て、時々AR広告が空中に滲む。
《深夜でも入会! 劇場サブスク“月額980円” 今ならフィルム風エフェクト無料》
広告は私の視界だけに浮かぶはずなのに、ロボの投影が強すぎて、壁のポスターの上にまで重なる。90年代の映画の絵に、2010年代っぽいポップなフォントが刺さって、妙に生々しい。
私は電話帳を開き、目的のページを探す。映画館の「非公式ルール」は、電話帳の余白に鉛筆で書かれている。
——深夜1時以降、客が残っていたら追い出さない。
——ただし、党署名の通知が来たら例外。
——例外の例外:子ども連れは、朝までロビーで待たせる。
誰が書いたのか知らない。だけど、歴代の夜番が足して、消して、また足してきた字だ。
背後で、ガラケーの着信音が鳴る。私のじゃない。ロビーの落とし物箱からだ。
箱の中には、ファミコンカセットが一本、輪ゴムで束ねられている。ラベルは擦れて読めない。カセットの角に、番号シールが貼ってある。「第402-…」途中で剥がれた。
『拾得物は登録しなさい。規則』と母。
「登録はする。けど、今は先に……」
ガラケーを開くと、古いiモードみたいなメニューの上に、最新の差分リクエスト通知が重なって表示された。
《第0x38A71内閣ユニットより:娯楽施設における深夜滞留の取り扱い差分/即時レビュー要請》
通知の下に、さらに小さく。
《あなたは次の5分間、当該ユニットの内閣総理大臣に選出されました》
心臓が一拍遅れて鳴る。
『ほら来た。例外。追い出しなさい』母が言う。
「例外って言っても、党の署名がないと通らないんだろ」
画面には、党ドクトリン署名の欄がある。自動補完が灰色で候補を出している。最近は半ば公然と解読されて、ネットの掲示板には“通りやすい署名パターン”が出回ってる。
私はそれを使えば、ロビーの滞留を「安全上の問題」として即時解消できる。規則は守れる。上からも怒られない。
でも、ロビーの奥のソファに、二人影がある。
小学生くらいの子が、膝に毛布をかけて寝ている。隣の大人は、スマホの画面を暗くして、ただ座っていた。映画が終わっても帰れなかった、そんな顔。
ロボ清掃員が近づき、床のゴミを吸いながら、子どもの足元を避けるように小さく進路を変えた。機械のくせに、妙に遠慮深い。
私は電話帳の余白を指でなぞる。「例外の例外:子ども連れは、朝まで」。鉛筆の線は薄いが、消されていない。
母が、少しだけ黙る。
『……そのルール、誰かが泣きながら書いた字ね』
「母さん、わかるの?」
『わかるわよ。あなたも、いつか書く側になるの』
私は差分リクエストのレビュー画面を開き、承認でも非承認でもない、いちばん地味な選択肢を押す。
《保留:現行制度との差分断片を分割し、再提出要求》
党署名欄は空白のまま。代わりに、理由欄に短い文だけ打つ。
「娯楽施設の深夜滞留は、危険ではなく、避難である場合がある」
送信。
5分の終わりを示すカウントが、静かにゼロになった。
ロビーのAR広告が一瞬だけ途切れて、壁のポスターがちゃんと見えた。昔の映画の、手描きの目。
落とし物箱からファミコンカセットを取り出し、カウンターの上に置く。電話帳の上に、そっと。
子どもが寝返りを打ち、毛布がずれた。私は倉庫から、予備のひざ掛けを持っていく。
ロボ清掃員が、私の足元で停止して、小さく音を鳴らした。表示板に文字が出る。
「オヤスミモード:静音」
母が笑う。
『ね、機械も空気読むのよ。平成って、そういうとこ』
私はロビーの明かりを一段だけ落とす。外はまだ夜で、帰る場所がない人の時間だ。
電話帳の余白に、鉛筆を走らせた。
——党署名の通知が来ても、子どもが寝ていたら、起こさない。
その小さな一行が、明日の誰かを助けるかもしれない。アルゴリズムじゃなく、ここにいる私の手で。