暗室の波打ち際、あるいは熱を帯びた銀塩
──平成0x29A年08月14日 15:40
蝉の声が、湿った熱気と一緒に案内所の自動ドアから滑り込んできた。平成0x29A年8月14日、15時40分。壁に掛かったアナログ時計の秒針が、重苦しいチクタク音を刻んでいる。この「平成エミュレート地区」では、デジタル数字よりも、この物理的な振動の方が「夏休み」という概念を補強してくれるらしい。
「すみません、これ、現像できますか」
カウンターに置かれたのは、プラスチック製の使い捨てカメラ。1990年代に流行した『写ルンです』のレプリカだ。持ち主は、当時の若者文化を模倣したルーズソックスを履いた少女だった。彼女の視界には、おそらくARで当時の渋谷の街並みが重なっているはずだ。
『航くん、また現像機の量子乱数ロックが拗ねてるみたいよ。さっきからエラーログが飛んできてる』
耳の奥で、姉の結花の声がした。彼女は八年前、南伊豆の海で死んだ。今はエージェントとして、私の視覚野に常駐している。彼女が指し示した現像機のタッチパネルには、「党ドクトリン・アルゴリズム未署名」の警告が出ていた。
「少々お待ちください。スマート家電側のサーバーと同期が取れていないようで」
私は慣れた手つきで、案内所の隅にある業務用現像機を叩いた。本来、この時代の画像データは即座にクラウドへ吸い上げられる。だが、この地区の観光客は「不自由さ」を買いに来ている。フィルムという物理媒体に光を閉じ込め、化学反応を待つ数時間を楽しむ。そのためのインフラが、今、党の暗号更新の遅れという微細な故障で止まっていた。
視界の端に、黄金色の通知がポップアップした。
【通知:第0x7C1F内閣ユニット、内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒】
またか、と溜息が出る。数十万ある内閣ユニットの一つが、私に一時的な全権を放り投げてきた。エージェントの結花が、素早く閣議決定リクエストを整理して網膜に投影する。
『今回の差分断片、多いわよ。旧熱海エリアの熱源供給アルゴリズムの修正、遺伝子ネットワークの微細補正……あ、あった。現像機用ドライバの「平成レトロ互換パッチ」の承認』
私は少女を待たせたまま、空中で不可視の署名を指でなぞった。党ドクトリンの深層アルゴリズムが、私の生体署名を受理する。量子乱数ロックがカチリと音を立てて緑色に変わり、現像機が唸りを上げて動き出した。
「お待たせしました。一時間後に仕上がります」
少女が去った後、私は自分用に淹れたスマート・コーヒーメーカーのボタンを押した。だが、出てきたのはただの白湯だった。お盆期間の特別ドクトリンにより、過度な覚醒成分は「社会安定のために」制限されているらしい。アルゴリズムが、私よりも私の健康を管理している。不便だが、それがこの時代の「平穏」だった。
一時間後、現像し終えた24枚の写真を少女に手渡した。彼女は「エモい!」と声を上げ、現像されたばかりの写真をスマホで撮ってSNSに上げている。本末転倒な光景だが、彼女が去った後、カウンターには一枚だけ写真が残されていた。
それは、私の不手際で現像機に挟まりかけた、少女が撮ったものではない「テストプリント」の一枚だった。そこには、何百年も前にこの場所にあったはずの、真っ青な海と、今よりもずっと高く積み上がった入道雲が、ざらついた粒子の向こう側に焼き付いていた。
「……結花、これ」
『……綺麗ね。私たちの遺伝子に刻まれてる、本物の夏の色かな』
私はその、熱を帯びた印画紙の手触りを指先で確かめた。党のアルゴリズムがどれほど精巧に平成を模倣しても、この現像液のツンとした匂いと、指先に残るかすかな湿り気だけは、計算式からはみ出しているような気がした。