深夜ループ、サーモンの約束

──平成0x29A年12月03日 00:20

午前零時を二十二分まわったところ。乗客のいない自動循環バスの車内に、低く唸るモーター音だけが響いている。
俺は最後列のシートに深く腰掛け、窓の外を流れる画一的な街灯をぼんやりと眺めていた。

不意に、慣性ブレーキが作動する。ガクン、と軽い衝撃。バスは停留所でもない道路の真ん中で、ぴたりと動きを止めた。
『緊急停止。進路上に障害物を検知。安全確認を開始します』
天井のスピーカーから、抑揚のない合成音声が繰り返される。

「またかよ」
思わず声が漏れた。視界の隅に、半透明のウィンドウがポップアップする。

『障害物誤認識。カテゴリ:C-3、紙片類。再スキャンを推奨』

脳内に直接響く、涼やかな声。俺のエージェント、五年前に死んだ妹の美咲だ。
「マニュアル通り、自己診断が終わるまで待機だってさ、お兄ちゃん」

俺は舌打ちしながらシートベルトを外し、運転席に向かう。マニュアル操作に切り替えることもできるが、規定ではまずエッジAIの判断を待つ必要がある。
バスを降りて前方を確認すると、アスファルトの上にひらりと一枚、紙が落ちていた。ヘッドライトに照らされて、色鮮やかな写真が見える。
拾い上げると、それは近所のスーパーの折込チラシだった。「歳末大感謝セール」の文字。厚切りにされた寿司のネタが、やけにうまそうだ。

ポケットに突っ込んでバスに戻り、システムをリセットする。数秒の間を置いて、バスは再び滑らかに走り出した。
この微細な故障は、もう何ヶ月も続いている。路上に舞うチラシやビニール袋を、車載AIが「人間」や「動物」と誤認識してしまうのだ。

「ちなみに、例のアルゴリズム更新リクエスト、また非承認だって。さっき第0x29A8C内閣ユニットから通知」
美咲が淡々と告げる。
「だよな」
「『現行システムの安全性は党中央ドクトリンの定める許容範囲内である』。だってさ。笑える」

どうせそんなことだろうと思っていた。この問題を根本的に解決するには、政策変更リクエストを通して、認識アルゴリズムの感度を調整するしかない。だが、その手のリクエストは、いつだって「社会安定に最適」とかいうお題目を唱える署名アルゴリズムに弾かれる。
解読ツールで署名を偽造する連中もいるらしいが、俺みたいな末端のオペレーターがそんなことをして、良いことなど一つもない。

その時、ズボンのポケットで旧式のガラケー型端末が短く震えた。
ディスプレイには「第0x3FB1D内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました」という、見慣れた通知。

「あ、おめでとう。総理」
美咲がからかうように言う。

目の前の空間に、閣議用のウィンドウが展開される。ずらりと並んだ政策変更リクエストのリスト。その一番上に、見覚えのある項目があった。
『第11交通ブロック 循環バス車載AI 障害物認識アルゴリズムの感度調整』
皮肉なもんだ。俺が承認できる立場になったところで、結局はあの署名がなければ意味がない。
俺は何もせず、ただ流れていく景色を眺め続けた。

五分後、短い電子音と共に、俺の短い任期は終わった。
ウィンドウが消え、バスは静かに走り続ける。

「ねえ」
不意に、美咲が楽しそうな声を出した。
「さっきのチラシのお寿司、美味しそうだったね。帰りにプリントしてかない? サーモン多めで」

妹はもういない。合成食品を味わうこともない。その事実が、ずしりと胸にのしかかる。
でも、その声は、事故で死ぬ前の、生意気で、食いしん坊だった妹そのものだった。

俺は、ふっと息を吐いて笑った。
「……そうだな。プリントして、お前の分もテーブルに置いといてやるよ」

その瞬間、ポケットの端末がけたたましく鳴った。
妹が好きだった、一昔前のJ-POPの着メロ。彼女が生前に自分で設定した、エージェントからの定期業務報告を知らせる通知音だった。