ビニール傘と、スーファミの値札

──平成0x29A年09月28日 18:00

 雨が降り出したのは、閉店作業の途中だった。

 レジ横のビニール傘立てが、がたん、と揺れる。風だ。第3商業ブロック東棟の吹き抜けモールは屋根があるくせに、九月末の横殴りの雨にはまるで無力で、タイル床がてらてら光っていた。

「傘、出しといたほうがいいんじゃない」

 左耳のインナーピースから、叔父の声がする。叔父――正確には、三年前に肝硬変で逝った叔父・安田勲の人格エージェント。生前と同じく、口調だけは穏やかで、言うことはいちいち的確だ。

 ただ今日の叔父は、叔父じゃない。

「……それ、代理のほうだよね」

「はい。安田勲エージェントは法定倫理検査のため、本日午前より一時停止中です。代理秘書の〈みなも〉が対応しております」

 声色だけ叔父で、語尾が急によそよそしくなる。AI秘書〈みなも〉。汎用の代理エージェントで、声は故人に寄せてくるくせに中身は別物だ。叔父なら「傘、百五十本は出せ。雨の日は黙って出しときゃ売れる」と言う。代理は「出しといたほうがいいんじゃない」で止まる。判断の芯がない。

 私はレジ裏のストックからビニール傘の段ボールを引きずり出した。百二十本入り。値札は「¥500(税別)」。その隣に、今朝バックヤードから発掘した中古スーファミが三台、透明のシュリンクに包まれて積んである。先週、本部から「レトロ玩具フェア」の棚割り指示が降りてきて、値付けがまだだった。

 ハンドスキャナで商品タグを読む。液晶にオレンジ色の文字が浮かぶ。iモード時代のUIそのままの、あの丸ゴシック体。

〈該当カテゴリ:娯楽機器(前世紀)/推奨価格帯を取得中……〉

 通信が遅い。モール内の中継器が雨でやられたか。待っている間に、フードコート側から合成食品プリンタの甘ったるい匂いが漂ってくる。今日のプリントメニューは「秋の味覚セット」らしい。松茸ごはんとサンマの塩焼き。全部フィラメントから出力されるやつだ。匂いだけは本物に似せてくるから、閉店間際の空腹には毒だった。

「あの、すみません」

 カウンターの向こうに、中学生くらいの女の子が立っていた。制服のブレザーが肩から濡れている。手にはガラケーを握っていて、画面を私に向けた。

「これ、取り置きしてもらったやつなんですけど」

 画面には取り置き番号と、商品名。『SFC本体(箱なし・動作確認済)』。ああ、あれか。先週、叔父のエージェントが電話対応で受けた予約だ。

 代理の〈みなも〉に履歴を引かせる。

「……該当の取り置き記録ですが、品名が『SFCほんたい(箱なし・どうさかくにんずみ)』ではなく、『SFC翻訳(箱なし・動作確認済)』として登録されています」

 誤訳。代理エージェントが引き継ぎ時にテキスト変換をミスったのだ。「本体」を「翻訳」に。意味が通らない。検索しても在庫が引っかからないはずだ。

「ちょっと待ってね」

 私はバックヤードに回り、シュリンクに包まれた三台のうち、裏面に赤ペンで「とりおき」と叔父の字で書かれた一台を見つけた。叔父は、デジタルの記録を信用しない人だった。生前も、死後も。だからいつも手書きのメモを残させた。

 赤ペンの丸文字を親指でなぞる。インクはもう乾いて、爪で擦っても取れない。

 女の子にスーファミを渡すと、彼女は両手で抱えるようにして、「わあ」と小さく言った。

「おうちにテレビある? 映すの、ちょっとコツがいるから」

「おばあちゃんの部屋にブラウン管があるんです」

 会計を済ませ、ビニール傘を一本おまけにつけた。叔父なら「雨の客には傘つけとけ、次も来る」と言っただろう。代理の〈みなも〉は何も言わなかった。

 女の子が雨の中を走っていく。ビニール傘の向こうに、スーファミの灰色がぼんやり透けていた。

 左耳から、代理の声。

「取り置き記録の修正を行いますか?」

「いらない」と私は言った。「もう渡したから」

 レジ裏に戻ると、赤ペンが転がっていた。キャップが外れたまま。拾い上げて、指先にインクがついた。まだ少し、湿っていた。