暗室のチャイムと、親指の認可
──平成0x29A年10月11日 19:50
平成0x29A年10月11日、19:50。
訓練校の暗室は、消毒液と現像液が混ざった匂いがして、いつも胃の奥が少しだけきゅっとなる。
「原田、今日の課題は“証跡”だ」
講師が言う。
証跡と言っても、ここでは写真だ。フィルム写真。わざわざ。
俺は冷蔵庫から35ミリを出して、ラベルの角を爪でなぞった。指先に、紙の毛羽が引っかかる。机の上には教材のPS2。起動音だけは妙に上品で、暗室の赤ランプと噛み合わない。
「平成的インタフェースの訓練な。行政端末は変わっても、人間の手癖は変わらん」
講師が、PS2のコントローラに触覚フィードバック端末の薄いカバーを被せる。
コントローラが、ぶる、と震えた。古いゲームの振動とは違う。指の腹の中心だけを狙って押してくる、規格化された“触覚”。
耳元で、叔父の声がした。
『健太、また変な授業受けてんな。写真部じゃねえんだぞ』
俺の近親人格エージェント――叔父の原田 恒一。享年49。夜勤帰りの居眠り運転で逝った。
生前も今も、面倒くさそうに笑う。
暗室の壁面端末が、短い通知音を鳴らした。
《差分断片レビュー演習:政策変更リクエスト 1件》
《提出元:第3教育ブロック/実習施設管理》
《内容:暗室・現像設備の薬品保管を“生体認証つきロッカー”に統一》
《目的:事故防止/責任境界の明確化》
講師が俺の机を指す。
「原田、お前がレビュアだ。承認か、非承認か。五分で決めろ」
俺は笑いそうになった。写真の授業のはずが、いつも最後はこうなる。
“制度との差分”を、生活の手触りで判断する訓練。
端末は、親指を要求した。
《本人確認:生体認証(指紋+皮膚導電)を実行してください》
俺が親指を置くと、触覚フィードバックがふっと吸い付き、脈に合わせて小さく脈打った。認証が通ると、今度はコントローラ側が震えて、YES/NOの選択肢が指に押し当てられる。
『ロッカー増やすだけじゃねえの? 承認でいいじゃん』
叔父が軽く言う。
でも暗室の隅には、今のままの棚がある。油性ペンのにじんだラベル。学校の備品シール。鍵は古い物理鍵で、紐の先に「暗室」とマジックで書いた札。
この棚は、誰でも開けられる。だからこそ、誰でも気づける。
俺は提出文の脚注を開いた。
《党ドクトリン署名要件:準拠》
《責任者:自動割当内閣ユニット 0x00E41…》
アルゴリズムの署名列が、妙に短い。半端にちぎれたみたいに。
『……ほら、末期だからな。穴だらけだ』
叔父が囁く。
俺はロッカー仕様の詳細を読む。
生体認証に失敗した場合、薬品は取り出せない。
停電時は、復電までロック維持。
代理認証は“倫理検査中のエージェント”のみ許可。
「実習、夜もあるよな」俺は講師に聞いた。
「ある。文化祭前は特に」
俺は暗室の赤いランプを見た。ここは、明かりを落として作業する場所だ。手元が頼りで、匂いで判断して、音で時間を測る。
そこへ、ロック。
フィルムを現像タンクに巻くときの、指先の引っかかり。
現像液の温度計を回すときの、ぬるい抵抗。
それらが、全部「認証できません」で止まる未来。
『お前、真面目だな。事故防止だぞ?』
叔父が言う。
俺はコントローラを握り直した。触覚フィードバックが、YES側へ指を誘導するみたいに、微弱に押してくる。嫌な感じの“正しさ”。
だから、反対側へ力を入れた。
《非承認》
端末が一瞬、無音になった。
すぐに、別の通知が重なって表示される。
《非承認理由:生活運用上の停止リスク》
《代替案:物理鍵+ログ撮影(フィルム含む)の継続》
《党ドクトリン署名:付与待ち》
講師が頷きかけた、その時。
端末が甲高い音を鳴らし、画面がひっくり返るように切り替わった。
《閣議決定:承認》
《署名:党ドクトリン(既知鍵)/内閣ユニット 0x00E41…》
《付記:非承認投票は“反対教材”として保存》
「え?」と俺が声を漏らすと、講師が肩をすくめた。
「お前の非承認は、教材として承認された。そういう期だ」
叔父が、喉の奥で笑った。
『な? お前が真面目に悩んだ分だけ、上手いこと“例題”になる』
俺は暗室の棚へ目をやった。明日から、薬品はロッカーに移されるらしい。
講師が最後に言う。
「次の課題は、ロッカーの開け方だ。生体認証、うまく通らない奴が毎年出る」
俺は親指を見た。現像液の匂いが、うっすら染みついている。
端末が、俺の指へ、やさしく肯定の震えを返してきた。
まるで“承認”が気持ちいいものだと、教え直すみたいに。